「サノト君、ちょっといいかな?」

「は、はい?」

「これ、何か分かる?」

「珈琲ですか?」

「そうだね。珈琲は何に入っているか分かるかい?」

「えっと…カップですか?」

「当たり。けど、君はどうして記憶が無いのにこれが珈琲で、器がカップだと分かるの?」

「…ああ、それは」

少年がレグサの問いかけから何かを察知したらしく、レグサと同じように、自分のカップを少し高く持ち上げて見せた。

「なんていうのかな…初めはそれ自体を知らないんですけど、見た時とか、聞いた時とか、ああ、そういう物だったなって、ふわっと分かるんです。それだけじゃ分からない時も、別の何かを見た瞬間、結びついたりして…」

レグサが突然立ち上がって「サノト君!それを先に言い給えよ!」と、歓喜の声を上げた。

そんな反応をされるとは思っていなかったらしい少年が「え!」と、声を上ずらせる。

「揃いもそろって、クソ医者どもめ。何が経過次第だ、先にこれを言えよ。たけぇ治療代を返しやがれ」

「あ、あの…?」

「サノト君!君の記憶は無くなっていないんだよ、記憶が無くなるっていうのは、本当はもっと酷い有様の筈だ。それこそ喋る事を忘れている筈だ!君は記憶を無くしていない。そもそも、言葉なんて物を使えるのが良い証拠だろう!」

「………」

レグサの言葉を茫然と聞いていた少年が、暫くして―――ハッと、瞬きをして見せる。

アガサも、成る程、と、レグサの説に感心を示した。

例が無いという事は、複数の人間の、しかも原初の判断を鈍らせるのだと、今回の事でよく思い知った。

「君の記憶はきっと治る」

「……―――」

「ほら、諦める事はなかっただろう?先の事なんて、誰にも分からないんだからね」

レグサのハツラツとした声の後に、少年が、ゆっくりと口を震わせ、やがて晴れたように笑った。

今まで抱えていた不安を全部昇華させたような、とても穏やかな笑顔だった。

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