レグサはアガサを連れて休憩室を出ると、そう遠くない場所にある非常室の前に戻り、その扉を開いた。

瞬間、ベッドの上で膝を抱えて蹲っていたらしい少年が、びくりと肩を震わせ、中に入ってきた二人を凝視する。少年の顔は、先ほどよりも不安の色が濃くなっていた。

「サノト君」と言って、レグサが怖気づく少年に歩み寄る。その肩に触れると、少年の緊張が余計に震えた。

「ちょっと話があるんだ。良いかい?」

「………」

返事の代わりに、―――ぼろっと、少年が涙をこぼした。

そこまで怯えられるとは思っていなかったので、レグサもアガサも、同時に顔を見合わせた。

「サノト君、なにも泣かなくても…。大丈夫だよ」

「………」

身振り手振りであやしてみたが、震える少年の涙は一向に引き返す気配を見せなかった。静かに、ぼろぼろと水滴を落とし続ける。

…記憶が無い、つまり、何も判別がつかない状態というのは、これほど恐ろしいことらしい。

記憶というのは目に見えないようでいて、人間の防御にかかる部分をかなり担っているという事だ。少年の様子を見ていると、いやがおうでもそれを理解させられた。

「…とりあえず聞いていてほしい、返答は首を振ってくれればいいから」

レグサは話を辞めなかった。感情に流されない仕事柄というのは、こういう場面でも浮き出るようだ。

「自分でも分かっていると思うんだけど、君は今、記憶障害…つまり、君の今までの記憶が無い状態にあるらしいんだ。その記憶が、君の頭の何処かに隠れてしまったのか、壊れてしまったのかは、僕たちには分からない」

「………」

「これは君にしか分からないんだ。だから、もう少し医者にかかろう」

「………?」

「他の医者にも掛かって、君の記憶を治す手立てを探してみよう。君が何も分からない以上、僕たちは何をしてあげる事が出来ない。だから、治療の手立てを片っ端から調べて見るのが一番いいと思うんだ。そう思わないかい?アガサ」

「…そうね、アナタひとりが膝を抱えていても、何がどうする訳じゃないし」

「だよね。という訳だから、次の駅で降りようサノト君。…いいね?」

最後の語尾だけ、とても優しく丁寧に言ってから、レグサは肩から手を移動させて、少年の頭を優しく撫ぜた。

頭を撫でられた少年が、ぱっと目を上げてレグサの顔を見る。

迷子の子供を諭すような柔らかさで、レグサは優しく笑っていた。その顔をまじまじ見ていた少年が、やがて、………こくんと、小さく頷く。

もう一度、レグサが彼の頭を撫でた。少年は、今度は顔を上げず、じっとそれを甘んじていた。

次の駅の停車を告げる音が鳴り響くと、レグサは少年を誘い降車口に向かった。その背に、アガサもひょいとついていく。

見送りだろうと、付いてくるアガサを気に留めなかったレグサだったが、アガサが一緒に列車を降りたところで漸く驚いて見せた。

「なんだ、アガサ、着いてくる気かい?」驚きとため息を混ぜたような声で問われる。

「ええ、なんだか、此処まで付き合ってたら、色々どーなるのか、気になってきちゃったわ?」

心境を語ると、レグサが、ああと言って笑った。それから、「そうか、それもそうか」と言って、去っていく列車を背に歩き出した。

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