暫くは試食を設けよう、という事になったので、翌日も営業時間を幾分か使って何時もの品目外、試食用のパン作成に取り掛かった。
今日は昨日作れなかった分の材料をオギが揃えてくれたらしく、(時間の関係上量は減ったが)品目の種類が更に増えていた。
この試食が事の他受けが良く、店を開けると、何時も来てくれる客が知人を連れて試食に来たりして「参考になるといいな」とか「このパンがどうしてもメニューに欲しくて」とか、嬉しい話題を振ってくれる。
オギではないが、そんな話を聞く度にサノトもにやにやと顔が綻んでくるようになってきた。
しかし、好調なのは昼下がり迄で、その後突然思いがけない事が起こった。レジを打っていたサノトの手に、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきたのだ。
え、と、顔を上げる間もなく、その水滴が多量を帯びて、サノトやレジ、地面に降りかかってくる。
途端、レジに並んでいた人だかりがわ!と声を上げて散っていってしまった。サノトがレジを打っていた客も、急いでパンを手に取るとどこかへと走り去って行ってしまう。その光景を、サノトは茫然と眺めていた。
その横から、オギが「サノト君!濡れちゃいますよ!中にどうぞ!」と大声を上げてくる。
まるで槍でも振ってきたかのような必死な声色だったので、なにも雨くらいで大げさだなと、心配されているのに他人事のように考えてしまった。
箱の中に入ると、オギが直ぐにタオルでサノトの頭や顔を拭いてくれた。粗方拭き終わると「びっくりしました」と目を丸めて呟く。
「まさか雨が降ってくるなんて…、ここ3か月くらい振っていなかったので油断してました」
「え、さん…!?」
予想だにしない数字に、思わず声を荒げかけたが、直ぐに引っ込めて目を逸らした。―――相変わらず、変な所で吃驚する事の多い国だ。
そういえば、トーイガノーツにはテレビの類がない事を思い出した。サノトが見掛けた事があるのは、ラジヲに似た大きな機械だ。見ただけで触った事も無いが。
「…天気の予報、なんてのは無いんですかね」
なんとなく呟いた言葉をオギが受け止め、あははと笑う。
「そんなものがあったら、先に店を閉められるので便利ですね!」
「………」
そうか、そんな風に受け止めるのか。
雨が降ると知っても人が予定を立て、出歩くことを当たり前としているサノトの感覚では、オギの言う所の意味は中々新鮮な物に聞こえた。
「……あれ」
今日はもう客が戻ってこないだろうから、今日の分は諦めてもう閉めてしまおうかと箱の中で話し合っていた時、不意にオギが窓の向こうを見て声を上げた。
指も指すので、サノトもつられてその先を視線で追い、あれ、と、同じ言葉を呟く。
オギが指さしたのは飲食場所の、丁度向かって左側に座っていた男性だった。サノトが手洗いにレジを離れた間にオギが受付でもしたのか、顔に見覚えが無かった。
男は、遠目でも分かるくらいすっきりとした爽やかな顔立ちに眼鏡をかけた中々ハンサムな男だった。
傘をさし、座っても服の上でも分かるすらりとした足を組み、パンを食べ、珈琲を飲みながら本を読んでいる。雨さえも巻き込む、まるで映画のワンシーン、役者の休日のような洗練された雰囲気だった。
その不思議な光景は、雨が降っただけで蜘蛛の子のように散って行った客とはまるで雰囲気が違っていた。
「傘をさしてる、…投資家の人かな」
「投資家?」
「ああ、サノト君は知らないんですね、商売してると良く聞く話なんですけど、投資家の人は皆傘を持ち歩いているんです、晴れの日も雨の日も」
「へぇ…?」
投資家とは何かという疑問だったのだが、オギの反応を見る限り投資家というのは一般的に知られているもので、説明するような事では無いらしい。
オギの言い方から、とりあえずそれは職業的な物かな?という見解で飲み込んでおく。
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