ああ。そういえばそんな事言ってたね。いやいや、でもでも。えー?
嫌な気配を含んだ沈黙が、何秒も、何十秒も続く。
事の展開についていけず、真っ青になって固まってしまった彼女に、アゲリハが下品な舌打ちを打つ。
「何時まで突っ立っているんだ。脂肪塗れの豚め。良いからそこを退」それ以上言わせる前に「失礼しました!」突き破るようにして叫んだ後、反射運動でアゲリハを掴み、それ以外は何もかも置いて逃げ出した。
「だから!少し弁えろって言ってるだろ!」
「だって!」
「だってじゃねぇ!礼儀だ礼儀だ!必要最低限の、れ、い、ぎ!」
「だってだって!私は女が嫌いなんだ!嫌いな物には触られたくないだろう!お前だってゴキブリが触れたら叩き落とすだろう!」
「ゴっ…!お前はなし聞いてたのかよ!女をゴキブリに例えるとか、礼儀以前の問題だろ!」
「だって!」
「だから、だってじゃねぇ!」
ジャージを着た外国人と口論する様は、他所から見ればどれだけ滑稽なのだろう。
そんな事に気を使えない程、自分も相手も、相当の血が上っていた。
口論の原因はもちろん、先ほどの問題発言と問題行動についてだ。
サノトは礼儀を弁えろと説き、アゲリハは持論をもって、嫌だと繰り返す。
相当、アレ―――女に触られた事が嫌だったのは解るけど。
「だからと言ってもな」苦々しく呟くと、アゲリハが何度目かの「だって!」を繰り出す。
苛立ちを無理に押さえつけながら、どうすれば相手を上手く丸め込めるだろうか、上手い術はないかと考える。
相手にうんと言わせなければ気が済まない(既に、説得よりも言い負かす事の方が優先されている)ので、必死に考える。
すると、咄嗟に飴と鞭という言葉が浮かんだ。
駄々を捏ねまくっている状況で、急に甘く説いてやれば、案外素直に折れるんじゃないだろうか?
早速、むき出していた歯をしまい込んで、「お前の言いたい事は分かったよ」ゆるく笑って見せた。
早速、サノトの考慮に引っかかったアゲリハが、むっと口を閉ざした。
「誰にでも苦手な事はあるもんな。でもさ、苦手だからって、やって良い事と悪い事はあるだろ?さっきだって、ただやめろって言えば良かったんじゃないか?なあ?その辺が、対人の礼儀だよなって、俺は思う訳なんだよ」
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