珈琲に一番合うお菓子はビスケットだと、いまのいままで思い込んでいた。

それが思い込みだと知ったのは最近までの話だ。

珈琲に、ビスケットが一番合うのだと教えてくれたのは前の彼女で。

それは思い込みじゃないのかと教えてくれたのは、最近仲良くなった人だった。

その、勘違いであろう珈琲とビスケットは今手元にあって。それをじっと眺めていると、ふと、これを教えてくれた当時、学生だった時の記憶が浮かび、その前後も鮮明な映像になり、頭の中を流れて消えていった。

楽しかった思い出も悲しかった思い出も。

これから、覚えていたことを見るたび思い出し、やがて少なくなっていくのだろう。いや。そうしなければ。克服するとはそういう事だろうから。

珈琲をひとくちすすって、ビスケットをかじる。

今いる場所はアパートに近い小さな喫茶店で、珈琲にビスケットをつけてくれる店は、近所にここだけしかない。

店の扉が開く。

来訪の鈴と共に顔を上げて、気まずそうな彼女―――元恋人に視線を配った。

「よお。美樹」

ここに彼女を呼び出したのはサノトだ。

「まあ座れよ。濁すのも面倒だし、はなから本題言わせてもらうけど。
……金の話をしようぜ」



朝に出かけてから数時間後。家に戻ってくると。

「すげーいい匂いがする」

自室の中に甘い匂いが充満していた。花とか果物じゃなくて、キャラメルとかバニラとか、そういう類の香り。

香りをたぐって中に入ると。「おかえりー」いつのまにか遊びに来ていたアゲリハさんが、振り返りざまつやつやになった唇を見せてきた。

どうやら、例の香りはアゲリハさんの口元から漂って来たようで。ミツバチよろしく、ついつい唇を凝視してしまった。

口紅のような紅色はついていない。自然な皮膚と血色の色。その上にラップをしたようなつやめきがある。

「リップをぬっていたんだ」と、アゲリハさんが言う。唇を凝視したまま、「へえ。異世界ってリップがあるんだ」思ったことを口にする。すると、「あるだろうよ」と笑われた。

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