「……ねえしおりちゃん」明日も仕事があるのだろう、こんな夜更けに出かけの準備を始めた兄へ振り向く。

「なにかな?」ネクタイを結びなおしながら、兄が器用に応えた。

「俺、最近ね、ダーリンのことが好きすぎて困っちゃうの」

「そうか。そうだね。そんな風に見える」

「うん。でもね怖いの。こんな自分知らなかったから」

このまま、俺の気持ちは彼と共にどこへ連れていかれるのか。

想像のつかない事がこわい。

頭の良い俺には、ずっと、想像のつかない事なんてなかったから。

「ねえ、しおりちゃんは今まで、この人のためなら死んでもいいって思ったこと、ある?」

常ならば「なんてことを言うんだ」と怒られそうなセリフである。けれど兄は怒らなかった。

支度の手を止めて、優雅にほほ笑み、そして。

「あるよ」

色気を含んだ甘い声でささやく。

その視線の先に誰がいるのかを察して、目を細めた。

お父様も大変だ。この人から逃げ出そうだなんて。

「しおりちゃんは後悔してない?」

「してないよ。覚悟するほど人を好きになるのは、幸せなことだと思う」

「……そう。うん。そうだよね」

兄の同意に、ひとつうなずく。

そうだ。後悔などするものか。

俺はこんなにも幸せなのだから。



「日焼けがいてぇぇ……っ」

「全身がびりびりするぅ…!」

帰宅早々。弟のけんじと共に玄関でうずくまった。

母親が、帰宅の出迎えと同時に「あんたらどうしたの!」呆れた声をなげうつ。それを、掬う余裕もなく、さっさと自室にひきあげた。

俺たち兄弟は部屋数の関係で、ひとつの部屋を二人で共有している。だから当然、ものや場所はいつも取り合いだ。

今日もエアコンが直に当たる場所をめぐって、さんざんな口喧嘩になったが、痛みに負けて二人、床に沈んだ。

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