本当の悪夢は現実に起こるのだと、豪星はその日初めて知った。

「ダーリン!」

男にしてはちょっと高い、間延びした甘い声が下校時刻の校門に響き渡る。

誰もがその呼び慣れぬ、聞き慣れぬ単語にきょろきょろと辺りを見渡した。

無論豪星も、例に漏れず、好奇心と疑問から首を回していた。―――が、はたと、眼が合ったその人の顔を見た時、ざぁっと血の気が引いた。

ついでに、先程の単語が、身体の中からデジャブとして甦って来る。

咄嗟に踵を返そうとしたが、足が180度回転する前に、背後からがしり!と肩を掴まれた。

恐る恐る振り返ると、何時ぞやのイケメンが、熱に溶かさたんじゃないかと思うほど蕩けた顔でこちらを見ていた。

「良かったぁダーリン、あえたぁ」

「あ、あえ、あ…ははは」

もう二度と会う気は無かったのに、会えた、とはおかしな話だ。

言い方アレだけど、昨夜の過ち、唯それだけの事だった筈なのに、なぜ当事者が現在しているのだろうか。

「もー、ダーリンったらうっかりさんなんだからぁ、番号間違ってたみたいだよぉ?」

ぷく、と男が頬を膨らませる。滑稽な仕草の筈なのに、流石イケメンだけあって、可愛らしい、の範囲に収まっていた。

周りに居る女子も、可愛いだの何だのと、興味深気にひそひそと囁いている。しかし、囁く数が段々と大きくなっている事に気付いて焦った。

どう考えてもひと波乱ありそうな今、このままでは妙な注目を集めかねない。

「俺ぇ、超かけたのにぃ」

「ええと、とりあえずちょっとこちらへ…!!」

「でもそういうとこ可愛い!」

「オッケイオッケイこっち!」

とち狂った言葉しか吐かないイケメンの背をぐいぐいと押し、人気の無い場所に迄移動した。

ぐいと、何時の間にか流れていた汗を腕で拭うと、豪星はまだ安堵出来ない状況に立ち向かった。

「え、えーと、あの」

「はーい」

「えーと、えーと、番号の件は大変誠に申し訳ありませんでした、それはさておき、…どうして此処が?」

真っ先に思った疑問を口にすると、ぱっと笑顔を浮かべたイケメンが、「えっとねー」と相槌を打ちながら、ごそごそと自分の服を探り出した、そして。

「こんな事もあろうかとー、じゃーん!」

取り出された、掌に収まる四角い何かを見て、すっと目が細くなった。ついでに、かなり冷えた汗が一筋、喉元を流れる。

…俺の学生証に見えるのは気のせいだろうか。

「昨日ダーリンが寝てる間に借りたのぉ」

いやいやそれ借りたって言わないよね!?盗んだって言うんだよね!?

「はーい、ありがとねー」

「は、はは…いえいえ」

本来ならば先程浮かんだ心の声を叫んで注意なり警告なりするべきだった、が、敢えて豪星はそれをしなかった。

彼とは妙な所で話が通じないので、多分、当たり前の注意も警告も、言った所で平行線になるだろうと思ったのだ。

だから今は終わってしまった事よりも、これ以上の被害を避ける事に専念すべきだ。

「ところでダーリン、俺、今日はダーリンのウチに行きた」

「あーーーーー!!!」

「え?どったのダーリン?」

「すみません!すっっっっっごく大事な物を忘れてきました!!!」

「忘れものぉ?」

「はい!!すみませんがちょっと取りに戻っても宜しかったでしょうか!?」

「うん、もちろーん」

勢い良く踵を返す、が、スタートダッシュを切る前に一度踏みとどまり、ゆっくりと振り返った。

「すみません…直ぐに戻って来ます、だから、此処で待っていてくれますか?」

「うんうん、分かってる」

「ほんとですか?絶対に待っててくださいね?絶対ですよ?動いちゃやですよ?」

「ダーリン…そんなに俺帰っちゃうか心配?もー、かわいいんだからぁ」

「あーははは」

「心配しなくても、俺、ちゃんと此処で待ってるからね?」

胸の内で手を叩き大いに喜んだ、勿論、彼が帰らないと約束した事に対してでは無い、動かないという約束を、中々良い反応、良い塩梅で取りつける事が出来たからだ。

この際イケメンが頬を染めてちらちらこちらを見ているとか、そういう事は敢えて受け止めておけば良い。

それよりも、良い感じに退路が見えてきた、後は、善は急げだ。

「ありがとうございます、じゃ、直ぐに戻って来ますんで」

とても爽やかな嘘をついて、豪星はくるっと元来た道を引き返した。

怪しまれるといけないので、ちゃんと玄関に入り、自分の教室の前にも近づき、暫く屈んで身を潜めて、から、辺りを全力で見まわしつつ裏門に走った。

イケメンはあの約束を律義に守ってくれたらしく、何度首を回しても彼の姿は見当たらなかった。閉じた門に足をかけ、ひらりと向こう側の地面に着地する。

(…よし!)

しかし、家に帰る迄が遠足――もとい逃亡だと心がけて、豪星は気を抜く事なく走り続けた。

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