のぼりはハシゴ、帰りもハシゴなど冗談でないので、豪星はすぐ窓にてをかけ部屋の中に入り込んだ。

「龍児くん!」名前を呼ぶと、壁際に座っていた龍児が大げさに震え、窓から侵入した豪星を見た。目が合うと、龍児は「しまった」みたいな顔を浮かべた。どうやら、今、ようやく窓を閉め忘れていたことに気づいたらしい。

豪星が間合いを詰める前に、龍児は立ち上がり扉の外へ逃げ出そうとした。が、それよりも前に「りゅうじ!」部屋の外から須藤の声が聞こえてくる。どうやら、窓に侵入した豪星を見届け、自分も二階に昇ってきたようだ。

龍児が、さっと扉から離れ、その隙に、豪星は窓をしめて扉に近づき、鍵を開ける。すると、部屋の外から、どっと須藤がなだれこんできた。

「龍児!」

「…………、」

二人分の影に詰め寄られた龍児は、数秒、目を丸く開いて瞬いていたが、やがて後ろを向いてうずくまると、ダンゴムシのような形になって動かなくなった。

「龍児くん……?」奇妙な行動をとる龍児を心配して近づくと。ふと、彼の背から嗚咽が聞こえてきた。

え!?泣いてるの!?

驚くも、彼が泣き出す理由が分からない。

「龍児!?どうしたなにを泣いてるんだ!?」

須藤が慌ててしゃがみこみ、うずくまった龍児の背を撫で始めた。

龍児はしばらく黙って泣いていたが、そのうち、「おれが」と、小さい言葉を繰り返した。やがてその言葉は、大きく、そして長くなっていく。

「おれ、おれが……俺が、おやつ……俺が……っ」

泣いていた龍児が、突然体を折り曲げて振り返った。龍児の視線の先は須藤、ではなく、その後ろで茫然と突っ立っている豪星だ。

「俺、俺がごーせぇのおやつ、た、たべたから、ごうせ、おこって、……おれのせいで」

「ええと……」なんのはなしだろう?

首をかしげる豪星の目の前で、「龍児。おまえいったいなんの話をしてるんだ……?」須藤も首をかしげている。

「だ、だって俺が、ごうせいのおやつ食べたから、ごうせいおこって、だから、」

「あ?おやつ?……ああ、お前らそういえば、おやつのことでもめたんだってな」

いったいそれがどうした。と、須藤が続ける前に、龍児が嗚咽の力を増やした。びぇええええ!と、文字通り癇癪を起した子供のような有様だった。

「おれがおやつ食べたから!ごうせいがおこって出ていくって言った!!」

「…………」

ん??

おかしいな。いろいろな事実は合ってるんだけど、決定的なところがまちがってるぞ??

「えーと……龍児くん。なにか誤解してますね」

「ぽいな……。けど、まあ、お前がうちを出ていくのがショックで泣いてるのは間違いねぇな」

「そう……ですかね?」

なにもそんなことで泣かなくても。というのが正直なところだが、龍児をみているとそれは一大事なことらしい。

短期間で結構なついてくれたなぁ。とは思っていたけれど、まさかこまでとは思わなかった。

「あ!龍児まて!」

考え事をしていた豪星の目の前で須藤が叫ぶ。はっとして龍児のほうを見ると、そこにいたはずの龍児がまたいなくなっていた。

その代わり、須藤が、部屋にあるクローゼットを必死で開けようとしている。どうやらあの中に入り込んで、開かないように中から力を加えているらしい。

……なるほど。龍児は悲しいことがあるとひきこもる癖があるんだな。覚えておこう。

「龍児くん、またひきこもっちゃいましたね。どうしましょう」

どうしましょうもなにも、本人に出てくる気がないのならどうしようもないのだが。などと考える豪星の隣で、須藤は一度、クローゼットと豪星の顔を見比べると、「……よし、まかせろ!」打開策を思いついたらしく、胸を張って答えた。そして。

「おい龍児!お前がずっと隠れるから、豪星があきれてうちをもう出ていくって言いだしたぞ!

このまま行かせていいのかーーーー!!」

なにその雑な誘導。

どう考えても無理があるよね。

「ーーーーわぁああああ!ごうせぇええええええ!!」

おっと出てきた。ちょろいな龍児くん。

クローゼットから血相を変えて飛び出してきた龍児は、豪星を見つけるなり思い切りぶつかってきた。

内臓への打撃に「ぐぇ!」とうめくが、苦痛に出た声は龍児の「びぇええええええええ!!」という大絶叫にかき消された。

漫画のように泣きわめく龍児が、ぎゅうぎゅう豪星の腰に抱き着いて力をいれる。胃が飛び出るんじゃないかと思うほど苦しかった。

「りゅ、りゅうじくんおちついてぇ……!」

「ごめんなさいごめんなさい!おやつたべてごめんなさい!わぁあああ!!」

「りゅうじく……」

「おこらないでごうせぇ!なんでもするから出ていかないで!お願いごうせぇわぁああああ!!」

「ちょ、どうしよこれ……って、ぇええ!!なんで須藤さんも泣いてるの!?」

「いやなんか……もらっちまって……」

「ええー!?」

「……なあ、豪星。その、龍児がかわいそうじゃねぇか?」

「えっ!?」

「その、ほら、夏休みはまだもうちょっとあるわけだし。なんだったらうちから学校通うって手もあるし……その、な?龍児の気持ちがもうちょっとおちつくまでな?うちにいてくれてもいいんじゃないかって」

「ええ!?いやいやいやぐぇえええ!!」

急に思いがけないことを言い出した須藤に突っ込む直前、再び腹部に圧力をかけられる。

えづきながら龍児を見下ろすと、目を真っ赤に腫らした彼と目があった。彼はぴたりと泣き止んで、じっと、豪星を眺めている。

「ごうせい、帰らない?」

「えっ!」

「だっていま、そういった」

ちらりと、龍児が須藤を見る。

龍児と目のあった、須藤は、おもむろにぐっと親指をあげると、じりじり、豪星につめよってきた。

なにこの状況!?

「豪星……龍児もこういってるし、もうしばらくうちに……」

「ごうせー、いかないで」

「ええええ」そんなこと言われても、夏休み明けの準備だってあるし、そもそもうちをほったらかしたままなので、そろそろ戻らないともろもろの手続きもまずいし。

こ、こまったなぁ……!

と、おろおろしている豪星の背後からそのとき。「こら!!」沙世の怒鳴り声が聞こえてきた。三人そろってびくり!と震え、さっと、須藤が沙世に振り返った。

「さ、さよ。いつのまに……」

「武雄さん!わがまま言って豪星くんに迷惑かけちゃだめでしょ!龍児くんも!ほら!離れなさい!」

「~~~~~」

「そんな顔しないの!ききわけなさい!武雄さんも!つめよらない!」

「うっ……」

母親らしい口調で、沙世が龍児と須藤を豪星からひきはなすと、一転、やさしい顔に戻って、「ごめんねぇ」と、豪星に頭を下げた。

「うちの子がだだこねちゃって。迷惑したでしょう?」

「い、いえいえ……」うちのこ。って、須藤さんも含まれてるのかな……案外沙世さん、強いのかも。

「まったくもう。豪星くんはうちがけがをさせちゃって、ちょっとだけお預かりしてた子なんだから。豪星くんがいい子だからって引き留めちゃだめよ」

「だ、だってよ沙世。いなくなるとさびしいだろ……」

「こっちの私情でひきとめちゃだめって言ったの、聞こえなかったんですか?」

「うぅ……っ」

「豪星くん。いつごろうちを出ていくつもりなの?」

「は、はい。明日の昼過ぎくらいにはと思ってて……」

「あしたの昼!?早すぎないか豪星!」

「武雄さん!」

「ううう……!」

嫁に言いくるめられた須藤が、ぐうとうなって、から、また一転。「よし!明日は送迎会をするぞ!」くやしさをぐっと腹に押し込めた声で叫んだ。

「それならいいだろ沙世!」

「賛成です」

「というわけでだ!今日はいつもの倍いいもの食わせてやるからありがたく思えよ豪星このやろう!」

「ははは……」このやろうて……。

「沙世!買い物行くぞ!」

「はーい、大きいスーパーにいきましょうか。

けどその前に、お夕飯食べましょう。もうできてますよ」

須藤と沙世が一階へ降りていく姿を見送るさなか、ふと、先ほどから黙り込んだままの龍児に視線を移した。

龍児はうつむいていて、豪星の位置からはその表情がうかがえない。が、きっと悲しそうな顔をしているのだろうという察しはついた。

「あの、龍児くん……」声をかけようとしたが、言葉がすべて出てくる前に、龍児が豪星を横切って部屋を出て行ってしまう。

追いかけようかどうしようか迷っているうちに、龍児は階段を降り切ってしまい。

その後の夕飯の席にも、龍児は姿を消したままだった。



深夜。

豪星が仮部屋として使わせてもらっている居間の戸が、そうっと開く気配がした。

眠りが浅かったせいか、その静かな物音で目が覚めて、豪星はぼうっと、暗闇の中視線をただよわせた。

すると、引き戸にまた、小さな隙間ができていて、そこに、真っ黒い目がひとつ、こちらをのぞき込んでいるのが見えた。

あの子、どんな時でもああいう覗き方するんだな。

それがなんだか笑えてしまって、豪星は口の中だけでくすくす笑いをかみつぶすと、おさまったところで「龍児くん」相手を呼んだ。

豪星が起きているとは思わなかったのだろう龍児が、びくっとして、引き戸をふるわせた。

「おいでよ」片手をあげて上下に振り、こちらへ来るよう誘いをかけると、ためらった気配ののち、龍児が、すうっと中に入り込んできた。

豪星のまくらもとで正座をした龍児が、黙り込んだまま、じっと豪星を見下ろしている。

「ごめんね」寝そべったまま、豪星は龍児に話しかけた。

「俺が帰るのは、龍児くんが俺の分のおやつを食べたせいじゃないし、そのことをいまでも怒ってるからじゃないんだ。あれはもう怒ってないよ。というか、あんなささいなことで怒鳴ってごめんね」

「……ううん、」龍児が首を振る気配がする。これでおやつのことは帳消しだ。

「俺が家に帰るのは、そろそろ帰らなくちゃいけないからだよ。俺にも生活があるから、そろそろ、俺は俺の家にもどって、やらなくちゃいけないことをしたいんだ」

「……うん」

「龍児くんのおうちで過ごすの、すごく楽しかった。

また遊びにくるよ。それまで待っててくれる?」

「……うん!」

龍児が力強くうなずく。どうやら彼の中で感情と理性の帳尻が合わさったようだ。

よかったよかった。と思うのと同時に、ふと、彼にずっと聞きたかったことが頭をよぎった。

聞くべきじゃないかなとは思ったけど、やっぱり気になる。

明日出ていくからと思えば、余計にその気持ちが強くなる。

「ねえ、龍児くん。ひとつ教えてほしいことがあるんだ。言いたくなかったら言わなくていいんだけど」

「なんだ?」

「須藤さんたちは、龍児くんの本当のお父さんとお母さんなの?」

「…………………………………」

龍児が不自然に黙り込む。その沈黙が、肯定のすべてだった。

やがて龍児は、そっと、静かにしゃべりはじめる。

「ちがう。

おれの本当のかあさんは死んでる。とうさんは……わかんない。写真しかみたことがないから。

なんか、よくわからないんだけど、遠いしんせきとかで、あの二人はおれのことをひきとってくれたんだ」

「そうなんだ」

ということは、彼の母親は男に捨てられたか、彼が生まれる前に離婚したか、もしくは男が蒸発したか。大体そのあたりか。

ろくでもない父親ってどこにでもいるもんだなぁ。

豪星も他人事ではないので、なんとなく親近感を覚えていると。

「お、おれも豪星に聞きたいことがある」思いがけず、龍児が質問をかぶせてきた。

「なに?どうしたの?」半身を起こして彼に向き合うと、さっと、視線を畳の上に落とした龍児が、おずおずといった風に言った。

「かあさんも、とうさんもいないって、……どんなきもち?ごうせいは、どんな風におもってる?」

「え?」

「ご、ごうせい、前に病院で、母親は死んで、父親もほとんどいないって言ってた。お、おれ。あれ聞いて、この家に来る前のおれと……にてると思って。

でも、親がいないのに、あんなふうに笑ってるやつ、初めてみたから、お、おれ。ずっとお前に聞きたくて……ねえ、ごうせいはどんな気持ちなの」

「……………」

そうか。今ようやく、豪星の中で合点がつく。

彼がずっと豪星をのぞき込んでたのは、謝りたかったからじゃない。ずっとそれを聞きたかったんだ。

聞くにきけなくて、ずっと、のぞき込むことしか出来なかったんだ。

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