帰ってきたら、もう一度お礼を言おうと心に決めている豪星の目の前で。
「できた!」龍児が嬉しそうに、ひとつ解けた数式を見せて来る。豪星の心に、ほんのり温かい光が指した。なるほど。教える側にはこういう特典があるのだな。
夢中で教えている内に。「おーいお前ら。飯だぞー」居間の戸を須藤が開いた。「そろそろゲームは止めて……」てっきり、豪星たちはゲームをしていたのだろうと思っていた須藤が、龍児と豪星の前に開かれた宿題を見るなり、「なにしてんだお前ら?」唖然とした。
「みてのとおり……」豪星が須藤を見上げる。
「しゅくだいやってた」龍児が問いかけに答える。
「え。龍児お前、宿題は全然わからないからできないって言ってたじゃ……」須藤が言いかけて、から、ふと豪星を見る。そして、なるほど。という顔をした後、いつかのように破顔した。
「そうかそうか!勉強みてもらって良かったなぁ龍児」
須藤は、破顔したまま居間の戸から離れると。しばらくして、茶碗やハシを両手に持って戻ってきた。
「勉強も良いけど、そろそろ飯だぞ。片づけろよー」
「はーい」須藤に言われた通り、豪星は机の上を片づけ始めた。龍児もそれを手伝ってくれる。
あらかた宿題を片付け終えると、「今日はおそうめんですよ」須藤の後ろから沙世もやってきて、氷で冷やしたそうめんをいれた大きなボウルが、机の真ん中に置かれた。
豪星が机の前に座ると、龍児が隣に座った。
ふと、そういえば、龍児は最近、自分の隣に座ることが多くなったことに気づいた。
食事の挨拶をしてから、豪星と龍児は並んでそうめんをすすり始めた。汗ばむ季節に、冷たい細麺が喉を通るさまが心地いい。
隣を見ると、豪星の三倍ちかく、ハシで麺を掴む龍児の姿が見えた。相変わらず、豪星に勝る食べっぷりである。
「お前ら、そうしてると兄弟みたいだな」
須藤が、笑顔で不意打ちした言葉に、「ああ、いいですねそれ」豪星が乗り込む。
「俺、ずっと弟が欲しかったんですよ。龍児くんが弟ならかわいいや」
って、俺がお兄さんじゃ嫌かなぁ。と、笑いながら龍児を見ると。
そうめんを口にいれたまま、顔を真っ赤にさせて硬直している龍児の姿が見えた。
*
須藤家に来て、はや二週間。
ここのところ、なにかにつけて龍児がくっついてくるようになった。
今日も、須藤家の庭に出て花壇に水やりをしていると。
「ごうせー」後ろから声をかけられる。「なにやってんだ?」
「パクチーに水をあげてるんだよ」振り返って、ふきあげ続ける水しぶきの向こうがわを指さす。
「足が動くようになったのに、ゴロゴロしてるのも悪いなって思って。沙世さんになにか手伝えることはないかって聞いたら、花壇の水やりをまかされたんだ」
「ふうん」龍児が、声は素っ気ないが、目は興味深そうに、豪星が水をやるパクチーへ目をやった。
「けど、すごいよねぇ龍児くんのおうちってさ。パクチーがたくさん生えてるなんて。
パクチーって、たしかお店で買うと、小さいパックで結構な値段するんだよ」
というのは、猫汰からの情報である。
一度、猫汰が食卓にパクチーを出したことがあって。「猫汰さん。この葉っぱちょっと変わってますけど美味しいですね。なんて名前ですか?」と尋ねたところ。「パクチーだよー。おいしいよねぇ、俺も好きなの」と言いながら、それが割と珍しいものだということと、珍しいのでそれなりの値段がするのだという事を教えてもらった。
他人の受け売りを話す豪星に、「へえ。そうなんだ」龍児が感心しきりと言わんばかりにうなずく。
「豪星、すごいな。おれ、庭みても、草がはえてるくらしかわからなかった」
「あはは。さすがに俺でも、ユリとヒマワリくらいは分かるよ」
「どれ?」
「……あの黄色いのと、白いの」
指さしながら、ユリとヒマワリが分からないのはさすがにやばくないかな?と考える。須藤家では、分からないことは分からないまま放っておく方針なのだろうか?
豪星の水やりが終わると、龍児はすぐに豪星の腕をとって、「ゲーム」とつぶやいた。遊んでほしいらしい。
最近は、龍児とゲームをやって、ゲームが一区切りつくと、一緒に宿題(主に豪星が二人分片づけているようなものだが)をやっている。
龍児がなつけばなつくほど、その時間が長くなっている。
そんなことを続けている内に、いつの間にか足はもう、はた目にもわかるほど完治していて。
被害者と加害者だったはずの須藤家と豪星は、いつの間にかホームステイのような状態になっていた。
*
昼を過ぎ。
用事があるからと出かけて行った沙世が、土曜休みで家にいる夫と、夏休み中の豪星と龍児、三人分用意してくれた昼食を食べながら、テレビをみていた時のことだった。
『昨日、〇〇動物園で行われていたナイトZOOが無事終了し、来場者は去年を上回る好調に―――』
「あ、これ。俺行きました」ちょうど流れたニュースの一文が目にとまり、ハシを置いて画面を指さした。
「ほー。豪星、これ行ったのか」須藤が、聞いたことはあるけど行ったことはない。という口調で話題に乗りかかる。
「夜に動物を見に行くっていうやつだよな?」
「そうです。夜行性の動物が活発に動くのをみれて面白いんですよ。
あと、出店が出てたり、プロジェクションマッピングがあったり」
「ぷろ?なんだそれ?」
「プロジェクションマッピングは動くイルミネーションみたいなもので……」
豪星が、あれこれ説明を付け加えていると。
隣でそれを、じっと聞き入っていた龍児がふと一言。「……へぇ」興味津々といった風につぶやく。
それに気づいた須藤が「なんだ龍児。行ってみたいのか?」からかい半分に尋ねると。「ん……ううん」龍児は首を横に振った。
「動物園にいきたいんじゃなくて、豪星が、楽しそうでいいなぁって」
いじらしい言葉に若干きゅんときた。ついつい、隣にある頭をぐりぐり撫でてしまう。龍児といえば、突然頭をぐしゃぐしゃにされて目を白黒させている。
そして須藤といえば。「……ナイトZOOはもう終わってるし、うーん……」ニュースの終わったテレビ画面を眺めながら、なにやらぶつぶつつぶやき考え込んでいる。
しばらくすると。「よし!」ちょうど中身を食べ終えた茶わんを置いて、須藤が立ち上がった。何事かと思いきや、「遊園地に行くか!」須藤が、居間で一声叫ぶ。
「ゆうえんちですか??」
「そうだ!もうナイトZOOはやってないけど、あの動物園、となりに小さい遊園地あるだろ!?」
「ありますけど……」
「そこにいこう!ちょうど昼飯も終わったしな!今から車で行けば三時間くらいは遊べるぞ!
なあ龍児、豪星と遊園地いきたいよな!」
まるで決定事項のように尋ねる須藤に、龍児といえば。
数秒、ぽかんとしてから、だんだんと頬を染めて。ひとこと。
「いきたい!」
*
というわけで。
ニュースの一文から始まった世間話が、まわりにまわって遊園地になりました。
須藤の提案から、あれやこれやと連れてこられた遊園地の入り口で、豪星はぼーっと立ちながら、ものすごく久しぶりに来た遊園地の一部をながめていた。
須藤といえば、連れてきたけれど参加する気はないらしく、乗り放題つき入園券を豪星と龍児に買い与えると、「それじゃ、閉園間近になったら迎えにくるな!」と言って、ひとり車で去って行ってしまった。
そして龍児といえば。小さな遊園地をきょろきょろ見渡して静かに興奮しているようだった。釣り目がちな目が、喜びに輝いている。
「ゆうえんち、おれ、初めて来た!」
「え?須藤さんに連れてきたもらったことなかったの?」
素朴な疑問を投げかけたとたん、それまではしゃいでいた龍児の様子がぴたりとやんだ。
龍児が、さきほどの輝きをなくした目を、じっと地面に落とす。その目はどこまでも空虚で。
それを見て――――豪星はようやく、「なにかがおかしい」ことに確信を持った。
ヒマワリとユリがさく庭で、花の名前を「わからない」と言った龍児。
ヒマワリとユリなど、毎年咲きそろっていそうな庭。
理想的な親子に見えるのに、須藤家はなにかがずれている。
そしてそのずれは、思うに、すべて龍児につながっているような気がした。
一瞬問いかけて、やめる。代わりに「龍児くん、あれ乗ろうよ」手近にあった乗り物を指さし誘った。
「フラワーカップだって。おもしろそうだよ」
「なにそれ?」
「あの大きいうつわに入って、ぐるぐる回すんだよ。
行こう。乗ればわかるよ」
龍児の腕をとって、ちょうど客がいなくて暇そうにしていたスタッフに券を見せて出入り口を通ると、フラワーカップのひとつに龍児と乗り込む。
龍児はおろおろしていたが、開始のブザーが鳴ると、よけいに混乱したらしく、おろおろしていた。
「龍児くん」豪星が先に、カップの中央に設置された円盤を掴んだ。
「これをまわすんだよ。そうすると、俺たちがのってるうつわがくるくる動くから」
既に、カップの地面はぐるぐるに動いている。
この上さらに、豪星が円盤をまわしてうつわを回すと、龍児がぎょっとした顔で背後の背もたれに退いた。
「やってみて!」豪星が、回る円盤を手放して龍児に叫ぶ。
退いていた龍児が、おそるおそる円盤に近づいて、両手でそっと円盤を掴んだ。そして、初めは遠慮がちにうつわを回し。やがて。
ものすごく楽しそうにぐるぐる回し始めた。
それを、ほほえましく見守っていた豪星だったが。その内。「りゅ、龍児くん!ちょっと!ストップ!」慌てて龍児を止めにかかった。
「これおもしろいなごうせい!」
「うん!おもしろいのは良いんだけど!ちょっと待って!これ以上やると……!」
豪星の忠告むなしく。結局龍児はそれ以降も大変な勢いでカップをまわし。そして。
「おぇぇええぇえ……」案の定、めちゃくちゃに酔った。
同じカップに乗っていた龍児も当然酔って、ふたりでベンチにうなだれながら、ひたすら吐き気が遠のくのを待った。
「ごうせい、おれきもちわるい……」
「あれね、まわしすぎるとこうなるんだよ。ひとつ勉強になったね……うっ、」
喋っていると吐きそうになるので、お互い途中で会話をやめた。
ベンチで休憩すること十数分。先に持ち直したのは豪星のほうで。
いまだベンチでぐったりしている龍児に「ちょっとまってて」と言い残すと、豪星はベンチを立って近くの自販機に建ち、須藤にあらかじめ渡してもらった、豪星と龍児兼用のお小遣い3000円の内一枚をそこに入れた。
お茶をふたつ買うと、ベンチに座る龍児の元へ戻って、「はいこれ」一本を差し出す。
青い顔をした龍児が顔を上げて、差し出された一本を受け取ると、飲み口を開いてすぐ、中身を飲んだ。
「ありがと」
「いいえ」
お茶を飲むと、漸く気分が落ち着いてきたのか、龍児の顔色が元に戻ってきた。
お茶を飲み干すころには体のふらつきも取れたようで。龍児がすっくとベンチから立ち上がった。
そして、立ち上がったら上がったで、「あれのりたい」と、向こうのジェットコースターを指さした。
「もう大丈夫なの?」
「うん。へいき」
「分かった。じゃああれ乗ろうか」
龍児が指さした方向へ、二人並んで歩きだす。
道中。「あれは人気の乗り物みたいだから、ちょっと並ぶかもね」と言えば、龍児が素直をじかに現した顔つきで、こくこく頷いた。
*
ジェットコースターを乗り終えるころ。
龍児が「おなかすいた」と言い出し、豪星も小腹がすいてきたので、フードコートを探した。
ちょうど、歩いて数分先にあったフードコートの注文口に立つと、豪星はホットドックを選んで先に頼んだ。
龍児はどうする?と聞けば、じっと、写真つきのメニューを眺めたあと、あれとあれとあれとあれとあれ。と指さした。
あれとあれとあれとあれとあれ。全部計算してからすぐ、「龍児くん。お金足りないからふたつ減らして」勘定が足りなかったので、物のほうを減算するよう申し出た。
龍児は、しぶしぶといった感じに口をすぼめて、あれとあれとあれとあれとあれ。から、あれとあれとあれに、食べたいものをしぼりこんだ。
注文してから、しばらくして物が出来上がると、それを持って空いた席に座った。豪星がホットドックを食べている内に、龍児は包みをふたつ、ぺろりと食べ終える。相変わらずすごい食欲だ。こんな痩せた身体によくこれだけ入るものだと舌を巻く。
お互い、全ての食べ物を食べ終えると。豪星が先導して、包装紙などをゴミ箱に捨てに行った。
捨て終えて、席に戻ってくると。龍児の姿がないことにきづくいて辺りを見渡した。すると、フードコートの隣にある土産屋を兼ねた売店の出入り口に立っている龍児の姿を見つけた。
「龍児くん!」その後ろ姿にかけよって声をかける。「だめじゃないか、何も言わずにどっかいっちゃうと分からなくなるよ」
「ん」龍児が顔を上げて、すぐ、また同じ位置に戻す。
龍児がじいっと眺めているのは、古くて錆びた小さな機械の箱だった。表書きに「記念コイン」と書かれている。ものめずらしくて、豪星もまじまじと箱を眺めてしまった。
箱には、この機械がなにをどうしてくれるのか、箇条書きで説明されている。それを読み込んでいる間に、隣からぐいぐいと引っ張られた。
「ごうせい、これなに?」どうやら、興味深そうに眺めていた割には、内容はよくわからなかったようだ。
「記念コインだって。500円玉くらいのコインに、今日の日付を機械が書いてくれて、それをこの穴に落としてくれるみたい」
今日、ここにしましたよっていう記念をくれるんだね。そう付け足すと。
「きょう、ここにきた」龍児が一部を反復して、から。「ごうせい、おれこれがほしい」機械を指さして言った。
「え、でも」ちらりと、先ほど彼が食べまくった食事と、そこに消えたお小遣いを思い出す。「もう、須藤さんから預かってたお小遣い、なくなっちゃったよ……」
事実を伝えると、龍児がものすごく落ち込んだ顔をした。こんな顔を見せるのは思うに初めてのことだ。
「さっきたべたもの出せば、おかねかえしてもらえるかな」
「返してもらえないし、出しちゃだめだよ」
口調的にやりかねない龍児をいさめつつ、豪星は自分のあごに手を添える。
そんなことを言い出すくらいは欲しかったのか。しかしお金はもうないし。
……いや。ないことはない。豪星には、預かったお小遣い以外に自分のサイフがある。
一応、欲しがっている本人に、「龍児くん。自分のお財布とか持ってきた?」自分のサイフの有無を確認する。答えは否だ。
それじゃあと、豪星は自分のサイフを取り出して、記念コインが買えるだけのお金を中から抜き出した。
それを、機械の中にいれる。お金をいれる瞬間を見ていた龍児が、ぎょっと目をむいて豪星を見た。
「はい。これで記念コインがもらえるよ。どうぞ」
「でも……」
「いいよ。これくらい。欲しいんでしょ?」
「ん……、」それはそうだけど、どうしよう。みたいな顔で、龍児は数分戸惑ったあと。機械のボタンを押して、取り出し口の穴から出てきたコインをつかんだ。
「ご、ごうせい」ちょっと焦った感じで、龍児が豪星を見る。「ありがと。……大事にする」
「うん、そうして」といっても、陳腐なコインだ。きっといつか、箱か棚の中に忘れさられてしまうだろう。
それでも、今日の龍児が喜んでくれたならなによりだと思った。
*
園内の遊具をもうひとつ、二つ遊んでる内に、わびしい音楽と共に、閉園30分前のアナウンスが流れ込んで来た。
「そろそろ戻ろうか」隣にいる龍児に確認をとると、「ん、」名残惜しそうな同意を得たので、出入り口に向かって歩き出した。
出入り口にたどり着くと、「おかえりー」すでに迎えに来ていたらしい須藤が、煙草くさい匂いをまとって豪星たちに近づいてきた。
「たのしかったか?」
「はい」
「たのしかった!」龍児がことさら、強くうなずく。
「そうか、よかったなぁ龍児、誕生日に豪星と遊んでもらえて」それに気づいたらしい須藤が、ぐりぐり、龍児の頭をなでた。
「え?誕生日今日だったの?」一番最後の単語に反応した豪星が、龍児の方を振り返ると。「うん」龍児がさらっと頷いた。
「あれ?俺豪星に言ってなかったっけか?今日は龍児の誕生日だからちょうどいいと思って遊園地も連れてきたんだけどよ」
「聞いてませんよ、初耳です。
なーんだ、知ってたらなにか用意しておいたのに」
といっても、豪星のサイフ事情では買えるものなどたかがしれているが。
などと、わびしい事を考えている豪星の目の前で、「もらってる」龍児が、先ほど買って与えたコインを誇らしげに取り出す。
「え?これがプレゼントでいいの?」
「うん。だいじにする」
「そっかー」まあ、龍児がそれでいいなら良いか。
「おまえらー、もういくぞー」
「「はーい」」
帰りは龍児の誕生日プレゼントを買いにいくとのことで、豪星たちを乗せた車は、夕暮れ空の下、おもちゃ売り場へと向かって言った。
つづく。
12>>
<<
top