かちかち、かちかち、かちかち、かちかち。
済ませてしまった家事の合間に、サノトは時計を見つめていた。
何の変哲も無い、部屋の隅に置かれた、装飾の少ない時計だ。
特異の無い時計を何故ひたすら見つめているかと言えば、その針の動きが、サノトにとって不思議を帯びていたからだ。
かちかち、かちかち、かちかち、かちかち。何度見ても、慣れそうに無い。
「なにをしているんだ、サノト?」
冷蔵庫の中のおやつをあさっていたアゲリハが、目的の物を手にしてこちらに向かってきた。
お菓子の他に、カップが二つと茶の容器が握られている。お茶に付き合えというサインだ。
丁度喉が渇いていたので、時計から離れ席に着いた。アゲリハが、お茶をカップに注ぐ。
その間、もう一度「何をしていたんだ?」と尋ねられた。
ちらりと背後を振り返り、「時計を見てたんだ」と答えた。予想外だったのか、アゲリハが大きな目をぱちりと瞬かせる。
「何故だ?」
至極当然の疑問だろうなと思いながら、ふと苦笑する。
この国の当然は、サノトには適用されないからだ。
「此処の時計、回り方が逆なんだ、俺の知ってる時計と違ってさ」
この疑問は此処に来て直ぐに感じた事だったが、そういえば、アゲリハに告げるのは初めてだなと思った。
相変わらず、アゲリハが不規則なタイミングで瞼を叩いている。その滑稽さに、もう少しだけ笑った。
「お前の目には、時刻が、逆に動いて見えるという事か?」
「うん、そう、時計ってさ、何処でも目にするだろ?だから…どーも違和感あってさぁ」
お茶を口にしながら頷くと、ふむ、とアゲリハが顎を摩ったあと、徐に「逆行か」と呟いた。
「ぎゃっこうって?」
「単純に言えば、逆さにゆくという事だな」
「つまり?」
「つまり、そうだな…それは」
顎を摩っていた手を今度は目元に寄せ、それから、机の上に置いた。
「それはな」
途切れ途切れに呟いていたアゲリハが、不意に、寂しそうな笑みを浮かべた。
「つまらない話をしようか」
「つまらない話って?」
「逆さにゆくことの道理だ、それは大勢の人にとって大変つまらない事だ、だからつまらない話なんだ、…なあサノト、正しいと思って進むと、何時かその逆を歩いているかもしれない事に、誰しもが気付かない事を知っているか?」
少し考えてみたが、全く理解できなかったので、首を傾げる事で答えた。
「それが時計と何の関係があるんだ?」
純粋な疑問をぶつけた瞬間、何故かアゲリハが、とても愛おしそうな目でサノトを見つめた。
じっと。
じっと。
何十秒も、アゲリハはサノトを見つめた。
やがて動き出して、軽く笑いながら漸く菓子を齧り始める。
「そうだな、失礼した」
何時もの調子に戻ったアゲリハが、もぐもぐと菓子を頬張りながら、ふと振り返った。
その視線の先には、何の変哲も無い時計があった。
「逆さに進む時計か」
首を斜めに傾げて、口元を緩め、目を伏せる。
「それはそれは、この国らしい事だな」
――――がたん、がたん、がたん。と、不意に列車の音がした。
外に出ればよく聞く音だが、部屋の中でこれほど大きく聞こえた事はない。耳鳴りにしてはやけにしっかりした音だ。
「なあ、なんか…列車の音がしないか?」
「何処へ行くんだ、サノト」
サノトの疑問にアゲリハがおかしな返答を返した。
「え?」と、聞き返そうとして、ぐにゃりと、突然、アゲリハの姿が曲がる。
いや、椅子も、窓も、机も、なにもかもが。
「あげ」
「行くな、サノト!!」
斜めに曲がったアゲリハが、ひしゃげた腕をサノトに伸ばしてくる。その手に手を延ばして、掴もうとした瞬間。
ぶつんと、目の前と景色が、真っ暗になって消えた。
【第3話完】
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