油照りの夏だというのに、誰かが「火鍋をしよう」と言い出した所為で、佐藤ヤシロの部屋はもうもうとした熱気に包まれていた。

空調がかかっているのに暑いという、矛盾した部屋の中。友人三人に囲まれながらヤシロはため息をついた。

そして言った。

「これは不毛ではないのだろうか」と。

「おいヤシロ。なんの実りがないんだって?」ヤシロの右隣で、煮えたばかりの鍋から豚肉をさらい始めた三坂が、振り返らずに応える。

「不毛だ。これは不毛だよ」

「だからぁ。ヤシロ。なにが不毛なんだよ」ヤシロの左隣で、坂田が多めにぶち込んだ長ネギをひろいつつ、これまた振り返らずに答えた。

「三坂。坂田。愚問だぞ。おのれの存在意義を振り返ればおのずと答えが見えてくる筈。
なあ?井上よ。お前なら分かるだろう?」

ヤシロの対面に座る、鍋から豆腐をひきあげたばかりの井上に問い質した所。

「野郎四人で不夜城をつづけることかい?ヤシロ」

漸く。ヤシロの言いたかった答えに辿り着く。

「そのとおりだ井上よ!」思わず、机の隙間を叩くと、火鍋の中から液がこぼれおちた。

「あぶねぇだろヤシロ!」隣の三坂に怒鳴られるが。知ったことではない。

不夜城とは。ざっくりいうと「夜なのに昼のように明るく賑やかな場所」を指す。

ヤシロ、三坂、坂田、井上は。出自はちがえど同じこころざしを持って勉学にはげみ。県下一番の大学に無事受け入れられたいわば同胞である。

そして我々は、去年成人したことにより酒を飲む楽しみを覚え。四人仲良くのんべえというものになり。夜になると四人で酒をのみかわすという習慣を作り出した。

のみかわす場所は専ら、大学にもっとも近いアパートを借りるヤシロの部屋。つまみと酒は各自持ち込みだ。

夜通し飲む所為で、飲み会をしている間、ヤシロの部屋はつねに明るかった。全くの暗闇をみることなく、みな飲んで飲んで寝て、そして朝を迎える。

だからいつしか、この酒盛り会を、我々は「不夜城」と呼び始めた。

ヤシロの名前が、漢字にすると「夜城」と書くので、ちなんだというのもある。

ちなみに、ヤシロは自分の漢字が自分のイメージよりもずいぶんかっこよすぎるので、友人各自に「名前はなるべくひらがなかカタカナであつかってくれ」と触れ回っている。

それはさておき。

「なあ。三坂。坂田。井上。我々はこのように、頻繁に酒をくみかわしていてよいものだろうか」

「いいんじゃないの?楽しいし」

「楽しいことは認めよう。だがしかし。我々にはほかにもっとすべきことがあるのでは?」

「俺たちゃ、昼はちゃんと勉強してるから、頻繁に飲んでるとはいえ学生の本業からは外れてないと思うけどね」

「ちがう。ちがう。もっと生き物としての本業だ。こう、青い春というのか、アバンチュールというか」

「おんなか?」

「そのとおりだ!」

ヤシロが断言した途端、「「「はぁー」」」どこからともなくため息がもれ、その全てが火鍋のもやにまぎれて消えた。

「おいおいヤシロ」

「それは言わない約束だろ」

「な、なぜだ」

「お前の言いたいことは逆なんだよ。いいか?俺たちは男四人、不健全な酒を楽しんでいる。

そして、健全なる彼女がもしいたとすれば、こんな不健全は生まれないんだ。

分かるか?できないからこうなってるんだ。楽しい楽しい不夜城は、好き好んで発生しているわけじゃないんだよ」

「そのカラをやぶり、今こそ行動にうつすべきではないかという提案を私はしているんだ!」

「おい三坂。ヤシロのやつ、最近変な本でも読んだか?」

「そういえば。この前伝説のナンパ師直伝。もてないカラの脱出法とかいう自己啓発本を熱心に読んでたよ」

「なるほど。影響をうけやすいヤシロっぽいなぁ」

「私は彼女がほしいんだ!なぜなら!この前!実家で就職した弟に彼女が出来たんだ!結婚前提に付き合っていると言っていたんだ!

私は!弟に出し抜かれるのも先に結婚されるのもいやだ!

だから!不夜城はそろそろおしまいにして!かわいい彼女を部屋にいれたいんだー!」

「ヤシロ。まあ飲め。俺の知り合いにも多数いるがな。男兄弟だと、次男のほうがいろいろ出し抜くのがうまいんだよ。
そして。お前のような長子長男っていうのは、その立場だけでたいがい女にきらわれる。

えー、長子長男って結婚したら相手の実家入らないといけないんでしょー?
大学生にもなると、つき合った彼氏とはちょっと結婚意識するっていうかー。
つまり、長子長男とかぜったいむりー。結婚するなら次男だよねー。
ていうか、結婚以前に、女きょうだいのいない長男ってたいがい、女扱い下手だよねーきゃはは。

こんな風にな。
行動力以前に、お前の持ってるカードはそもそも不遇なんだよ。おめでとう」

「具体例を出すなこのやろー!」

「まあ飲め。いいじゃないかヤシロ。いざとなったら俺が彼女になってやろう。自慢じゃないが、俺はイケメンよりも男前かつかっこいい所為で、高校のとき男に告白されたことがあるんだよ」

「いやだー!それこそ不毛だー!」

「まあ飲め。友情ってのはな、不毛なんだよヤシロ。
消費するばかりで物質的なことはなにも産まない。
実りがないならせめて楽しもう。なあヤシロ。共に不夜城の騎士でいよう」

「おまえら出ていけー!」

なんて叫ぶものの。酒とつまみの溢れた我が城を出ていく食客がいるはずもなく。

今日もヤシロのアパートは不夜城のまま、明るさばかりが過ぎていくのだった。



不夜城が去って。次の日。

六畳一間、畳の上でむくり起き上がると、すでに同胞の姿はカケラもなく。代わりに、空き缶や鍋の残りが無残な姿で残されていた。

飲むばかりで毎度片付けやがらねぇ。あいつらめ。次来たときこそ追い出してやる。

そうだ。私はあいつらを追い出し彼女を作るのだ。いつまでもいつまでも男まみれで青春を過ごしてなるものか。

そうだ。此処が仮にも城ならば、此処に本来住むべきは姫である。

かわいい姫とここで酒をくみかわし、あわよくば生物のいとなみもかわし、うれしはずかし、未来の話などをするのが本来あるべき姿なのだ。きっとそうだ。

きっときっとそうだなのだ。不夜城ばかりが続いてなるものか。

ぶつくさ。口の中で文句を言いながら空き缶をかきあつめ、指定ゴミを気にせずありとあらゆるゴミをゴミ袋にほうりこんでいく。

二つ目のゴミ袋を縛りこんだ時。

ぴんぽんと、築云十年のアパートにふさわしい、古臭いチャイムの音が部屋の中をこだました。

誰だ?

宅配。ではない。ここ数日、なにか物を頼んだ覚えはない。

大家。でもない。家賃の集金は先日すませてある。

それでは、勧誘か営業か。

それとも。「うちにテレビはないと言ってるだろうが。テレビがないのにおたくの番組の受信料を払ういわれはない。なに?あなたの持っている携帯に受信アンテナがついてるかもしれない?知らんがな。それは携帯の会社かショップに言ってくれ。私の管轄ではない。今この場で確認できる?知らんがな。君が興味津々のアンテナとやらに、私はそもそも興味がない。ええいうるさい!しつこいぞ出ていけ!」と断りつづけている某テレビ局か。

どれにせよ有益ではなさそうだと思い、チャイムの音を無視して片付けに徹しようとしたが、チャイムの音はなかなか途切れず、やっと途切れたかと思えば、今度はこんこんと、扉を叩く音がした。

しつこい勧誘だ。もしくは営業だ。もしくはテレビ局だ。

扉をたたく音はさらに続いた。こんこん。こんこん。「すみませーん。となりに引っ越してきた足屋ですー。ごあいさつにきましたー。いますよねー?」なんと騙りまで始めたではないか。

不謹慎な。と、思ったところで、ふと思い出す。

そういえば数日前。アパートの前で黒猫の絵がついた引っ越しトラックを見かけた気がする。そのトラックが、ヤシロの部屋の隣に荷物を運び込んでいた気もする。

なるほど。勧誘でも営業でもテレビ局でもなく、引っ越しの挨拶だったのか。

しかし感心なおとなりさんだ。このご時世、きちんと引っ越しの挨拶に来るとは。

その心意気に免じて掃除の手を止めてやり、ヤシロはノックの音が止まない扉に近づいた。

さて、お隣さんはどんな野郎かな。

ここは大学に近いから、どうせ引っ越してきたのはしがない男子学生。それか、築云十年のワンルームにふさわしいパチンコ好きそうなおっさんだろうと予測しながら。

「はいはい。佐藤です。ご丁寧にどうも」扉を開けた。そして。

「あ!お忙しいところすみませーん。隣の203号室に越してきた足屋ですー。いろいろ迷惑かけるかもしれませんけど、よろしくおねがいしまーす」

「…………」目を剥く。

扉を開けた先にいたのは、若くてかわいい女の子だったのだ。

固まってしまったヤシロに向かって、女子は手元をごそごそさせると、「はいこれ。引っ越し祝いですー」そう言ってヤシロの手に箱を押しつけてきた。

「…………はっ!」

やっと理性が戻ってきたころにはすでに女子の姿はなく。代わりに閑散とした外の景色が目に映った。

ふと、渡された箱を見る。

それは、引っ越しそば。ではなく、なぜかラーメンだった。



今宵も開かれし不夜城。

「みんな。聞いてくれ」

「どうしたヤシロ」

「隣の部屋にかわいい女の子が引っ越してきた」

三坂がもちこんだホットプレートの上で肉が焼ける音を聞きながら、今日あった出来事を切り出すと、ヤシロの他全員がぽかんと口をあけた。後。

「「「あっはっは!」」」一斉に笑い始めた。

「いかん。いかんぞヤシロ。いくら弟君に彼女が出来たからと言って、それが悔し過ぎるからといって。
幻想に走ってはいかんぞ」

「そうだぞヤシロ。こんな築云十年のワンルームアパートに引っ越してくるような、可憐な女子はおらんぞ」

「そのとおりだヤシロ。さては不夜城崩壊のための布石を打って出たな?それしきの撹乱で我々が大人しく引き下がるわけがなかろう」

全ての嘲りを無視して。「写真がある」昨日、証拠を残す為に頑張って隠し撮りをしたおとなりさんの写真をガラケーから引き出して見せた。すると。ヤシロ他全員がもう一度笑ってから。

十分ほどヤシロをリンチにかけた。

そしてきっちり十分後。

「となりに美女か。おめでとうヤシロ」

「いやー、こんな漫画みたいなこと起きるもんだね」

「かわいい子だな。化粧けがないのがまたよい」

それぞれ祝辞を述べてから、焼けこげ始めたホットプレートから肉をさらい始めた。殴られ傷んだ口に、ヤシロも肉をつっこむ。

リンチについては、「なにをする!」とも「理不尽だ!」とも思わなかった。きっと、ヤシロも別の誰かが同じ状況になったら同じことをするからだ。

むしろ、うらやましい。という妬み嫉みを十分ですませて祝い始めるのだ。気持ちの良いやつらじゃないか。

「とはいえ、隣に女が越して来たってだけで、彼女出来たって話じゃないしなぁ」

「いやいや。男くさいこの部屋の隣がフローラルになっただけでも環境に優しい」

「そのとおりだ。消臭効果はばつぐんだ。
それで?ヤシロ。となりの美少女とは話せたのか?」

「引っ越しの挨拶にきてくれたとき、少し」

「そうかそうか!いまどき挨拶に来るなんて性根のまっすぐな子じゃないか」

当然というべきか。今夜の不夜城のツマミは専ら、隣に越してきた女の子のことになった。

不夜城の野郎どもはひとしきり、女の子はどんな感じだったのか。なんの話をしたのか。隠し撮りなんてストーカーのようだと、ヤシロと女の子のことを囃し立てた。

それから、話題は徐々に、彼女とどうやってお近づきになるかへ移行した。

「俺だったら、ゴミを捨てる時間に合わせて携帯番号を聞きにいくかな」

「ゴミを捨てるそばで、いきなり番号を教えてくれって聞くのか?あきらかに怪しいだろう」

「せめてラインのアドレスくらいにしておこうぜ」

「私はガラケーだからラインがないぞ」

「ヤシロ。知らないのか?ガラケー版ラインは存在するんだぞ」

「それ、利用者がいなさすぎて、今年のはじめくらいにサービス終了しなかったっけ?」

「おいおい。おまえら。連絡先を突然尋ねる路線が変わってないから怪しいままだぞ。隣に住む、男臭あふれる独身学生に住所どころか電話番号にアドレスまで抑えられるなんて、か弱い女性にとっちゃとびきり怖いにきまってるぞ。下手をするとヤシロが通報されて警察のお世話になっちゃうぞ」

「そうだぞお前ら。ストレートすぎだ。いきなり連絡先じゃなくてよ。まずはお近づきになるきっかけを作らにゃいかんだろう」

「どうやってだよ」

「忘れたのか。ヤシロは引っ越しそばならぬ、引っ越しラーメンを頂戴したんだぞ」

そう言って、誰かが、彼女から貰ったラーメン(ゆでめんタイプ)を、肉ともやしと油を追加したホットプレートに、勝手に投入した。

じゅうじゅう、こげていく肉ともやしと麺の上から、ラーメンに同封されていた液体つゆをどばどばかけていく。

調味料がプレートの上で焼けて香り高くなり、その香りが胃袋を刺激する。

こうするとやきそばになってうまいんだよと、誰かが言った。

なるほど。奇妙だが名案だ。

だがしかし、引っ越しの祝いがそばでもなくラーメンでもなくまさかやきそばになろうとは。美味いから良いけど。

「我が日本には美しい習慣がある。ヤシロ。それを利用するべきだ」

「なんの話だ。三坂よ」

「お前がいま美味そうに食ってるやきそばラーメンの話だ」

やきそばラーメン。それはやきそばなのかラーメンなのか。悩ましいたべものだ。

「引っ越しにそばならぬラーメンをもらったのだ。だからお前は祝いを返す義務がある。返礼というやつだ」

「おお。なるほど。それならヤシロが自然に彼女と接触できるな。三坂、かしこい」

「ええと。つまり私はなにか?もらったラーメンに対して、別の品物を見繕って彼女に贈ればいいということか?」

「そうだぞヤシロ。彼女に、これ返礼ですと言ってしっかり贈りものを渡し、ちゃっかり知り合っておくんだ」

男をあげてこい!と、焼酎をなみなみカップに注がれる。

それをえいや!と飲みほせば、途端、気が高揚した。

そうだ!きっと、彼女がとなりに越してきたというのは、私に彼女ができるという予兆なのだ!

ここで私は男を上げねばならぬのだ!そうと決まればプレゼントだ!

そうだそうだ!いいぞヤシロ!

そんな風に、叫び叫ばれる内に不夜城は明けていき。

次の日の早朝。ヤシロは自分の城の中でひとり、目を覚ました。

瞼に日差しを受けながら、やれやれまた片付けをせねばならんなと起き上がり、ふと、違和感を覚える。

部屋が片付いている?

何時にない部屋の様子に驚きが走る。その内に、机の上に紙が一枚、乗せられている事に気づく。

拾いあげてみると、それはメモ書きで、メモ書きの下には六千円がしかれていた。

なんだこの中途半端な金は。

首を傾げながら、メモ書きに書かれた文に目を通す。そこには。

『ヤシロへ。
 たまには掃除しといた。
 彼女への返礼、がんばれよ。
 不夜城一同。
 追伸:ひとり二千円ずつカンパしてやる』

「…………あいつらめ」

笑みが零れた。なんて気持ちの良いやつらだ。

そして思う。

ここまで後押しされたならば、私はしっかりと男を上げねばならない。




とはいえ。

ヤシロは産まれてこの方、女性にまともな贈り物をしたことがなかった。

精々、子供のころ。母上さまにカーネーションを贈ったくらいだ。

だから。返礼のために何を贈ればいいのか。全く検討がつかなかった。

通信環境を持たないヤシロは、ネット情報にも頼れない。

不夜城諸君から頂いた六千円をしばらく眺めた後、ヤシロは部屋を飛び出し、愛車の自転車と共に商店街へと向かった。

この町の商店街は今時めずらしく、客が多い。開いている店も多く、あと二十年は安泰だろうという雰囲気だ。

ヤシロの目的は、活気あふれる商店街の隅の隅。

昭和と平成をかけあわせたような、カラフルなのにしなびた雰囲気を併せ持つギフトショップだ。

ここなら、店の名の通り、お礼の品をなんとか用意出来る……だろう。断言できないのは来店するのが初めてだからだ。

店の脇に自転車を置き、贈りものが並ぶガラス窓の向こうを眺めたあと、おそるおそる中に入った。そして早速後悔する。「いらっしゃいませ」店番をしていたのが若い女性だったのだ。てっきり熟年の男性か女性だと思っていたのに、想定外だ。緊張で身体が強張る。

彼女がほしいほしいという割に、ヤシロはとことん若い女性に免疫のない男だった。

そのくせ若い女性に贈り物をしようとしているのだから、矛盾している。

「どうされました?」二の句を継げないでいるヤシロの元に、カタログを読んでいたらしい店番の女性が、本を閉じて近づいてくる。

「ええと。その。あの」落ち着け。目的を言って適当なものを買って帰るだけだ。コンビニと何ら変わらん。……はず。

「そ、その、へんれいの品を買いにまいったのですが……」

「え?へんれい?返礼の品ですか?どんな?」

「え、ええと」

しどろもどろになりながら、欲しいものは引っ越し祝いの返礼で、相手は若い女性、という事を、数分かけて伝えると、伝わったところで女性にくすりと笑われてしまった。顔から火が出そうだ。

「いまどき、引っ越し祝いに返礼をされるなんて。お優しいんですね」

余計に顔が熱くなる。本当に優しいと思われているのか、下心丸出しだなと思われているのか、判断出来ないししたくない。

「それでは、甘いものはいかがでしょう。ちょうど、夏にぴったりの冷やして食べるスイーツを何点かご用意しております。
お相手はひとりぐらしの方ですか?
では、この一番小さいゼリーの詰め合わせなんてどうでしょう」

はぁはい。じゃあそれで。包装はおまかせします。はあじゃあそれで。

分からないところはほとんど丸投げしつつ、店の女性に贈りものを包んでもらった。

不夜城のカンパ、三分の一を使って支払いを終えると、冷や汗をぬぐって足早に店を退出する。

さて。これで目的のものは手に入った。あとはアパートに引き返し、これを彼女に渡すだけである。

……いや。だけ、ではいかんのか?

アパートに戻り、買ったばかりの箱を床に置いてじっと考え込む。

この箱を切っ掛けにして、相手との交流を結ぶ。即ち、これを渡す際に私は、彼女に気の利いたことをしかけねばならないのだろうか。

例えば、今度一緒に近所のあんみつでも食べに行きませんか。とか、女性の好きそうなものをちらつかせてデートに誘うとか。

いやいや。外出を誘うのは時期尚早か。

そうだ。まずは下の名前を尋ねるのはどうだろう。何かの本に、人は、氏で呼び合うよりも、名で呼び合うほうが親しみが増すと書かれていた。これを機に相手の下の名前を知り、見かけるたびに呼びかけてみるのはどうだろう。

よし。それだ。まずは返礼のついでに、下の名前を尋ねてみよう。

そうと決まればさっそく、箱を掴んでアパートの廊下に出る。

現在の時刻は午後6時。夜のバイトでもない限り在宅中だろう。

お隣の203号室の前に立って、数分、躊躇いを繰り返したあと、ええい、と、人差し指でブザーを押す。ぴんぽんという音と同時に、心臓がどきんとはねた。

少しして。『はぁい!』中から声がした。また心臓がはねる。

「す、すみません!となりの佐藤です!」中に聞こえるよう叫ぶと。『え!おとなりさん!?ちょっとまってください!いまあけますねー!』彼女の返答に続いて、目の前の扉が開いた。

「はあい。おまたせしましたー!」

彼女が、扉の向こうから顔だけをのぞかせる。その頭がぐっしょり濡れているのを見た瞬間、ぎょっと戦慄いた。

まさか風呂上りか!?風呂上りの乙女の部屋を訪ねてしまったのか!?

これはいかんぞ!タイミングが悪すぎる!

「す、すみません風呂上りでしたか!」

「いえいえ。気にしないでくださいー」

「いえいえ!間の悪いときに申し訳ない!これ、これを渡しに来ただけなんです!」

「え?なにを?」

「これです!返礼です!」

「へんれい?あ、なにこれ。お菓子?」

「なかにゼリーがはいっております!この前の!ラーメンのお礼です!」

ひとり狼狽えるヤシロとはちがい、彼女は平然と、扉にかくれていた身体を外に滑り出した。

なんと、彼女の上半身はほぼ裸だった。布地は、肩に小さなタオルがかけられているのみだ。

ヤシロは思わずのけぞった。女性が上半身を裸にして出てくるなど思いもよらなかったのだ。

急ぎ、顔を両手で覆う。けれど、破廉恥な無意識が「こんな役得もったいない!」と、指の間にスキマを作ったところで。

「…………んんん!?」変な声が出た。

「あー、ゼリーね。ご丁寧にどうもー」

「き、き、きみ、」

「はい?なんすか?」

「きみ、もしや……男性か?」

胸のふくらみが、一切ない。

よくみると、下にはいているのは部屋着のショートパンツかと思いきや。トランクスだった。

「え?」彼女は一瞬唖然とし。「ああ。そうですよ」けろっと言った。

「僕、よく女の子とまちがえられるんすよね。顔、こんなのだし、声もわりと高いから。
あはは。佐藤さんも間違えました?」



「それで?ヤシロ。彼女に贈り物は渡せたか?」

次の日の不夜城。袋ラーメンを入れまくった鍋の左右対面から、早速、期待のこもった問いをなげつけられた。

「とりあえず」ヤシロはポケットに手をいれる。「もらった六千円のうち、四千円があまった。返す」

「おいおい。四千円じゃ三人で割れないだろ」

「ヤシロ。これはお前にくれてやった金だ。千円はお前がもらっとけ」

「おい。そこは全額もらっとけと言うところじゃないのか?」

「返したのはヤシロだろ。
それで?返礼はどうなった」

「ゼリーを買って……となりに渡してきた」

おお!と声が上がる。

「ヤシロにしては上出来だ!」

「それでどうした!?デートに誘えたか!?」

「それどころではなかった」

「なんだ?どうした」

「中から出てきた彼女が風呂上りで、上半身の裸体と下着を見た」

一瞬、辺りが沈黙して、から、リンチの気配を感じたので。「まて、まて!」すかさず止めた。

「今回は殴られる理由がない!」

「あっただろ」

「大いにあったな」

「なんだ。風呂上りの上半身の裸体と下着を目撃するって。漫画でもないぞ」

「ちがうんだ!誤解をまず訂正させてくれ!」

ヤシロは掴みかかろうとする友の拳を避けて叫ぶ。「おとこだ!」

「なにがだ?」

「彼女じゃなかった!となりに引っ越してきたのは男だったんだ!」

周りの怒りがふと流れ、次に、疑惑が吹き込んでくる。

「証拠は?」

こんなこともあろうかと、彼女、もとい彼に頼んで撮らせてもらった、上半身はだかにトランクス一枚(今思うと大変男らしい恰好である)のガラケー写真を見せる。

ガラケーを受け取った三人は、それを六つの眼でまじまじながめ始めた。

「これは……胸が極端に小さい。というだけではないのか?」

「いや。上半身を晒して外にでる女がいるか?ましてや、彼氏でもない男に写真を撮らせるか?」

「そうか。それもそうだな……」

「いやしかし。こんな顔の男もいるもんだな……」

満場一致で、「そうか。男だったのか」と理解したあと、「なぁんだ男かよ」と、白けた空気が部屋中に満たされる。

その時だった。

ピンポンピンポン。呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。こんな時間(午後十一時)に何事だと、全員が驚きに震える。

扉に一番近いヤシロがすかさず立ち上がり、「どちらさまですか……?」おそるおそる、のぞき穴に視界をいれる。そして。「なんだ、足屋くんじゃないか!」すぐに立ち上がり、扉を開いた。

外では、パーカーに半パンというラフな格好のお隣さん。もとい足屋氏が、「こんばんわー、足屋ですー」ひらひら手をふっていた。

「どうしたんだ足屋くん。
あ、私たちがうるさかったかな?すまないね」

「いえいえ。引っ越した日から、佐藤さんち、夜になると楽しそうだなって思ってて。なにやってるのか気になってきちゃいました」

「どうした」「だれだ?」「おお!となりの美少女くん!」後ろから、不夜城の騎士たちが外の様子を伺い来る。

美少女顔の足屋氏は、初対面の野郎どもに物怖じせず、「どうもこんばんわー」一層、可愛らしく笑って頭を下げた。

「みんな。さきほど話題に出ていた足屋くんだ」

「ほほう。近くで見るとより可愛らしいな」

「これはヤシロがまちがえるのも無理はない」

「なんですかー?僕の話で盛り上がってたんですかー?」

「そうなんだよ美少女くん。いやはや。ちょうどよかった。あがっていきなさい」

「おい。ここは私の部屋だぞ」

「いいじゃないかヤシロ。我らが不夜城は、不夜城である内は皆のものだ」

「ふやじょう?ってなんですかー?」

「おお。そもそも不夜城というのはだね。美少女くん」

玄関先でがやがやしている内に、足屋氏は不夜城の中に連れ去られ、野郎に囲まれ机の前に座らされた。

足屋氏を含めた不夜城は、「そもそも不夜城とは」といううんちくから始まり、「なぜヤシロの部屋が不夜城か」という、他人にとってはどうでもいいばかりの話に続き、最終的には話が飛んで、「足屋氏は本当に男の子のなのか見分会」が始まった。

迷惑なことに巻き込まれた足屋氏といえば。思いのほか楽しそう笑い続け、途中から酒盛りにも付き合ってくれた。

性別見分会が落ち着いた頃。

「あ、そうそう」

足屋氏は一旦、自分の部屋に戻ると、なにかを手に不夜城へ戻ってきた。

よく見るとそれは、ヤシロが足屋氏に渡したゼリーの箱だった。足屋氏はゼリーの箱を開けると。

「僕。甘いもの苦手なんでみんなで食べましょう」

人のプレゼントにケチをつけたあげく、それをみなに配り始めた。

失礼極まりないが、あまりにも堂々と配り始めたので、その胆の太さに却って感心を覚えてしまう。

「おお。これがヤシロが買ってきたゼリーか」

「ヤシロにしちゃオシャレだ」

「ヤシロ。すまんな。ご相伴にあずかるぞ」

「かまわん。元はお前らの金だ」

「僕、レモンゼリーが良いです。果物嫌いですけどレモンは好きです」

「はっきり言うなぁ、足屋くん」

「黙っててもしょうがねぇ性分なんすよ」

「そういえば足屋くん。聞き忘れていたのだけれど、君いくつ?」

「先月二十歳になりました。ここのアパートに近い大学の学生っす」

「ああ。なんだ後輩か。そうかそうか。となりの美少女は実は男で俺たちの後輩だったわけか」

「そうみたいですねー」

「この場合。足屋くんの分類はどうなるわけかな?」

「後輩兼男の娘。というやつじゃないか?」

「先輩がた。僕みたいな女顔の男はですね。世間一般に言わせれば。
イケメン。って言うんですよ」

「「「「自分で言うんじゃない!」」」」

「あっはっはー!」

まったくもって、肝の太い足屋氏はその日から。

大学が同じで部屋も近い。

失礼だけど何故か付き合いやすい。

なにより先輩後輩である。

という理由から、我らが不夜城の一員となった。





おしまい?






幼馴染の足屋トオルから、引っ越し先が落ち着いたので新居に遊びに来て欲しいと連絡をもらったので、時田まなぶは次の週の休日。彼を訪ねるため彼の新居先へと向かった。

彼の引っ越し先から一番近い駅を降り、予め伝えられていた住所をスマホに入力してしばらく道を探索すること十数分後。

「あ、ここか」検索した地図と自分の位置が一致したことに気づいて立ち止まり、顔を上げてから。「げ、まじかよ」目に見えた目的地に乾いた笑みが漏れた。

時田はスマホをポケットにしまうと、築云十年はたっているであろう賃貸の敷地内に入り込み、友人が暮らしている部屋の番号を目視で探し出した。

扉の真横に設置された、おそまつなチャイムを指で鳴らすと。「はーい」少しもしない内に、中から見知った幼馴染が扉を開けて出てきた。

「よー、足屋」片手を上げて挨拶すると。

「いらっしゃい時田。入ってよ」足屋はひとなつっこい笑みを浮かべて、中に入るよう促してきた。

幼馴染の新居の中と言えば、これもまた築云十年らしい間取りに内装、劣化具合で、悪くないけど良くもないという雰囲気を見事に体現していた。

その、ちんけな雰囲気にまたふさわしいやぼったいキッチンの前に立ちながら、足屋が振り返って「お茶沸かすけどいる?」尋ねてくる。

冷蔵庫からペットボトルのお茶。ではなく、わざわざ茶を沸かして淹れようとしてくれるところが、足屋トオルの育ちの良さを感じさせた。

そう。

足屋トオルは育ちが良い。

父親がその筋では有名なデザイナーで、投資もしているらしく彼の実家は大層な金持ちだ。

母親は地方都市の旧家に産まれた三姉妹の末の妹であり、これが大層美人な人で、その血を受け継ぎ、足屋トオルも女性のように美しい顔立ちで産まれた。

その、美人な母親は彼が幼い時に肺炎で亡くなってしまったが、その代わり、高い給金で雇った質の良いシッターが彼を構い、管理し、父親が仕事で不在がちでも、ここまで何不自由なく育った。

彼はここに引っ越すまで、父親がデザインしたという前衛的な一軒家で暮らしていた。全てがオートマチックに設備されたそこで、彼は女給付きで、王子さながらの生活をしていたのだが。

彼は、大学入学を切っ掛けに一人暮らしを始めると言い出した。

それを聞いた、不在がちだが彼を溺愛している父親も、給仕もそれはそれは心配し、実家からも通えるからと、彼に思いとどまるよう説得したらしいが、彼はそれを聞き入れなかった。

それどころか。「一人暮らしも経験だ」と二人をこんこんと説き伏せ、ついには単身で家を出るまでに至った。

そして、今このしけた賃貸にいるわけだ。

なんでここなんだよ。時田は率直に思った。

そして、「足屋。なんでここに引っ越したの?」ストレートに尋ねた。

「お父さんが金出してくれてるんだろ?」

「うん。まあね」

「じゃあなんでもっと良い部屋探さなかったんだよ」

警備保障どころか管理の行き届き具合も怪しい。

そんな風に思った時田に、足屋はふふっと笑って見せる。そして言った。「ここじゃないとダメな理由があったんだよ」

「なに?理由って」

「それを話したくて今日時田を呼んだんだ」

この話は時田じゃないと分からないからねと、謎の言葉をつなぐ足屋に首を傾げていると、足屋はおもむろに自分のスマホを取り出して、いくつか操作をすると、画面を時田に差し出して見せた。

画面は点灯し、写真画像が映されていた。いったいなんの写真だと訝しく思ったのも数秒。「!?」時田の目は画面に釘付けになった。

「斎藤先生……!」

時田が、今は懐かしい人の名前を叫ぶと、足屋の笑みが濃くなる気配がした。

「ね?斎藤先生にそっくりでしょ?」

「そっくり?……え?これ別人?」

「そう。この人ね、僕の隣の部屋に住んでる人なの。佐藤ヤシロって言うんだけど、名前もちょっと似てるよね」

僕の大学のひとつ先輩なんだぁ。と、足屋が嬉しそうに笑う。

その顔を見て、なにを笑っているんだこいつはと、時田は思った。

足屋と自分が共通で話題にしている「斎藤先生」とは足屋と時田が昔、通っていた小学校の教師であり。

足屋トオルの「彼氏」だった男だ。

彼が教師と付き合うようになったことの初めは、足屋と時田が12歳になった時のことだった。

当時、どんな女子生徒よりも美しく可憐だった足屋トオルは、その美貌から担当教諭にイタズラをされた。

そこまでならば悪質な「事件」なのだが。足屋は「気持ちが良かった」に加え、「先生の顔わりと好き」という理由で、自ら、自分にイタズラしたことを盾にして教師に自分と付き合うよう迫ったらしい。

それだけでもとんでもないのだが、それ以上に驚いたのは、彼らの「付き合い」がその後、5年も続いたことだ。

足屋は初恋だったのか、5年の間。傍目に見ても彼氏に一途で、たった一人、事情を打ち明けた時田にたっぷりと惚気ていた。

斎藤教師は妻子持ちだったので、これは事実上不倫だったのだが、そんなことは足屋にとって恋の追い風くらいにしか感じていなかったのだろう。

だが、一方的にイタズラされ、そして一方的に迫った恋はやはりというか、一方的に終わりを告げた。

足屋が捨てられたのだ。

斎藤教師は、足屋に気づかれないよう全ての痕跡をなくし、足屋の前からいなくなった。その後の沙汰は、一切なかった。

火遊びがいつまでたっても消えないことにおびえたのか。

妻に火遊びがばれてしまったのか。

斎藤教師が姿をくらませた理由は、今となっては分からない。

ただ、荒れに荒れた足屋だけが残されて、彼はもういない彼氏に悪態と悲しみを繰り返した。

それを傍目で見ていた時田は、友達の悲しみとは真逆に、ああよかったと思っていた。

このまま破滅するのは目に見えていた。それが早めに、それも、友達にほとんど被害が出ない間に終わってよかったと思っていた。

それなのに。

もう済んだことだと勘定したあの男にそっくりな男が隣に暮らしているという。

どういうことだ。なんの腹積もりだ。

時田はスマホの画面から目を離し、じっと足屋の方を見た。

足屋は笑っている。ずっと、愉快そうに。

「斎藤先生はもう見つからないけど、僕の気持ちはまだくすぶってるんだよね」

怒りと執着のまざった声で、なお足屋が笑う。

「ヤシロ先輩を見つけたのは偶然だったんだよ。一人暮らしは元々してみたくて、大学に入ったらすぐに賃貸探そうと思ってた。
近所に良い場所ないかなって散歩してたら、彼が、このアパートに入っていくのを見つけたんだ。
斎藤先生だと思った。たまたま、彼を見つけたんだと思った」

すぐに駆け寄りたかったけれど、自分から逃げ出した男が、足屋を見たらまた逃げ出すかもしれない。

だから、しばらく様子を伺ったのだという。そして、見つけた男が斎藤ではないと、しばらくもしない内に足屋は気づいた。

「斎藤じゃなかったのに、どうして……」時田は訝しんで友人を見た。足屋は、ふと笑うのを止めると。「そうだね」ちょうど、湧いたお湯をおろすため、キッチンのコンロに立った。

「斎藤先生にもう会えないなら、気持ちだけでもケリがつけたいなぁとも、僕、思ってて」白湯をカップに流し込みながら、足屋が続ける。

「そんな折にヤシロ先輩を見つけたもんだから、僕、なにも考えずにここに来ちゃったんだよね。特に彼になにがしたいというわけじゃないんだ。あえて言うなら気持ちの整理かな」

「ふうん……そっか」

なにも考えずに隣にまで来てしまった時点で、整理はまったくついていないのだと語っているようなものだが。

「はい時田。お茶」

「ん。ありがと」

こうと決めたらまっすぐな友人に、焼ける節介もないなと、時田は茶の入ったカップを受け取り、一口飲み込んだ。

最中。

「まあそれに、もしいけそうだったら彼と付き合っちゃえばいいし」

けろっと話す足屋に、茶を思い切り噴き出した。変なところにはいってしまい、盛大にむせる。

「彼ねぇ、誰とも付き合ったことなさそうなんだよねー。いいよねぇ。今度は僕が、斎藤先生にそっくりな男にイタズラできるかも」

「あ、足屋。こりないなお前……!」

咳をしながら心情を語ると。足屋は、自分のお茶を飲みながら。また、にっこり笑って言った。

「そんなの昔からでしょ?」

おしまい。

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