養ってくれていたひとが病気で死んだ。
随分前から具合が悪く、医者に行ったところ判明した死病だった。
病気の詳細を説明されたが、説明当時、いすずは頭が真っ白になって内容を覚えられなかった。肝臓の病気だとか言っていた気がするが、この時のことはいまだにはっきり思い出せないし、思い出そうとも思わない。
養い人はもともと豪快かつ明るくきさくな人だったけれど、その明るさも病気には勝てなくて、養い人は入退院を繰り返した末とうとう冬を越せずに病室で亡くなった。
妻も実子もおらず、代わりに恋人といすずのいる人だった。
まだ50の半ばの若さで亡くなったあと、いすずの手元には彼の遺産が残った。経営していた店、二階の部屋。彼の貯金。土地の権利。
買ってくれた服、思い出の家具、いろいろな場所に行って土産として買ってきたり拾って来たものなど。価値のあるものから、いすずにしか価値のないものまで。
彼は身よりのない人だったようで。養子になったいすずがこれら全てを受け取ることになった。
こんなもの、あの人なしにはいらないからあの人を返してくれ!と、1年は泣き暮らしていたが、時間は薬と言うべきか、4シーズンも泣きつくすとだんだん落ち着き。落ち着いたら落ち着いたで。
これからどうしよう。といすずは思った。
いすずは今年で16歳。中学校を卒業したらそのまま店を手伝う気でいたのだが、そのあてがなくなってしまった。途方にくれるとはこのことだ。
無い知恵を絞って考えた末、いすずが出した結論は、「自分がこの店の店主をしよう」ということだった。居酒屋の手伝いはもともとしていたからなんとかなるだろう。このまま泣き暮らしてもいずれ未成年のいすずの手元から金はなくなっていくが、店の経営が稼ぎになれば成人後も生活してゆける。
なにより、あの人が残した財産をいすずの手で受け継ぎ経営していく。それが一番、いってしまったあの人と、残されたいすずにとっていい方法だと思えた。
その旨を、彼が亡くなったあとも頻繁に様子を見に来てくれていた、彼の恋人だった人に相談すると。
綺麗な笑顔で「やめなさい」とたしなめられた。
「なんで!花火(はなび)さん!」
養い人の元恋人こと、花火さんはとても美人で、女性よりも綺麗な人だ。つまり男である。いすずの養い人がどういった経緯で彼と出会ったのか、彼を恋人としたか。詳細は結局死ぬまで教えてもらえずじまいだったが、あの人いわく、「女よりも美人だからぐらっときた」である。分からないでもない。いすずの初恋もこの人だった。
それはさておき。
綺麗な綺麗な花火さんは、笑みも美しいまま、いすずが淹れた珈琲を飲んで、「あのねいすず」と話始めた。
「坂月(さかづき)はね、ここで昼は喫茶店、夜は居酒屋をしていただろう?昼も夜もお客さんがいて、店は結構繁盛していた。それがなんでかわかるかい。いすず」
「常連客がいたからだろ」
「なんで常連客が居たか。それが分かるかと聞いているんだよ」
「……坂月さんが良い人だったから」
「ひとつ正解。坂月の人柄が良かったからだね。でもそれだけじゃ20点。ほかにも言ってごらん」
「……珈琲と酒が美味しかったから」
「そうだね。この店は味が良い。珈琲も坂月のブレンドだったし、お酒も趣味の旅行を生かして、現地で気に入ったお酒を仕入れたり取り寄せたりしていた。坂月は料理も上手だったしね。
はい40点。ほかには?」
「……うち、味の割に値段が安くてそこが良いって、みんな言ってた」
「そのとおり。物の付加価値に比べて提示する金額が安かった。これは大きな強みだったよ。いすず、調子がいいじゃないか。これで60点だよ。つぎは?」
「……これ以上は分からない」
「そう。そうだね。ここまで言えれば充分かな。
答え合わせをしよう。いすず。残りの40点は頭と度胸だよ。
考える力がないと経営はできない。対応できる力がないとお客はつかない。
坂月はああみえて勉強家だったよ。珈琲のこともお酒のことも、経営のこともお客さんとの話題のことも世間のことも一生懸命勉強してた。
あとね、店を経営していくには、頭以上に度胸がいる。毎月毎月綱渡りだし、貯金が出来たとしても、なにかの拍子にそれが消えていく恐怖がある。例えば、不意打ちの災害で店が半壊したり、自分が働けなくなったとき、収入が無くなったり。坂月は後者にぶつかったね。貯金を使い切る前に彼は死んでしまったけど。
さあいすず。これで100点だね。
聞くけれど、いすずは坂月が持っていた100点に対して、何点で対抗できる?
言っておくけど、いくら常連客だったからって、未成年の養子に香典以上にお金を払ってくれるほど世間は甘くない。
それに、坂月が死んで店を閉めた時点で常連客はいなくなったと考えたほうが良い。お客は店に集まるんじゃなくて、人に集まるのだから。
いすずが、坂月の100点を直ぐに越えられないというのなら、無謀なことはやめなさい」
「…………」奥歯を噛む。その通りすぎて何も言い返せない。一生懸命考えたのに、それが一番の弔いになると思ったのに。やっと光のさし込んだ未来を無碍にされて、いすずは再び目頭が熱くなった。
うつむいたいすずの肩を、不意に花火さんがつかむ。
「いすず。ごめん。厳しい事を言い過ぎたね。
違うんだよ。いすずがここを継ぐと決めた意思はとてもうれしい。きっと坂月もそう思ってる。ただね、今すぐにはやめなさいという説明をしたかっただけなんだ。
いずれここを継げばいい。私はそう言いたかったんだ」
いずれ。と言われ顔を上げる。目頭にちょっとだけ涙をためたいすずの顔に、花火さんは真っ白なハンカチを押し当て微笑む。
「経営するのはそれだけ難しいことだから、いすずにはまずここを継ぐ前に、店をやっていくための勉強をしたらいいんじゃないかと思ったんだ。遺産をもらったからと言って焦ることはないよ。いすずはまだ17歳なんだから」
「どういうこと?」
「店を継ぐ素養を養うために、学校へ行くのはどうかな。そういう歳なんだからちょうどいいよ」
花火さんの提案に唖然とした。進学するなど考えたこともなかった。
「でも俺、中卒だし、今更学校なんて……」
高校へ進学する気がなかったので、今更学校へ行けと言われても手立てが分からない。それを一緒に考えてくれる保護者ももういない。
いすずの不安を見抜いたのか、花火さんがA4ほどの冊子を取り出して見せた。表面には、「私立宝成学園」と書かれている。
「大丈夫だよいすず。私の学園に来なさい。経営特進科というものがあるんだ。
私が手続きをして、いすずを新入生として受験をさせてあげる。
経営特進科は経営について主に学んでいくクラスで、きっといすずにとって良い勉強になると思うよ。
空いた時間に、いろんなことも学んでいくといい。いすずは坂月の影響で、本を読むことが好きだろう?学校に行けばたくさんの本もあるよ。いすずが欲しいって言えば図書館に取り寄せすることもできる。
勿論強制はしない。いすずがどうしてもいますぐ店を開くというのならこれ以上止めもしない。
でも、坂月の残したものをいすずの力で守っていきたいというのなら、おせっかいな大人の意見に耳を貸してほしい」
返事は今度聞かせて欲しい。そう言って、花火さんは帰っていった。
もらった「宝成学園」の冊子をぱらぱらと眺めながら、いすずは朝昼晩、考えた。店のこと、自分のこと、将来のこと、養い人のこと。
花火さんがどうしていすずにこんな事を言ってくれたのか。そのことを。たくさん考えて。
次に花火さんが来た時。
「いきます」珈琲を出してすぐ、相手が切り出す前に切り出した。
「俺、花火さんの学校に行きます。よろしくお願いします」
頭を下げると、「いすず」花火さんに名前を呼ばれた。顔を上げると、花火さんがくしゃくしゃに笑うところだった。
*
宝成学園に合格するころには、進学すると決めてから一年の月日が過ぎていた。
花火さんいわく「ちょっと」難しい試験は思いのほか難しくて。勉強するのに1年もかけてしまったのだ。
中学生のとき、いすずはそこそこ勉強のできるほうだったでそこまで苦労しないと思い込んでいたのだが、進学勉強にここまで難航するとは思いもしなかった。
試験月は3月。発表も3月。正直合格するか不安だったけれど、もう1年もかからなくて良かった……。
入学式が4月なので、それに合わせていすずは宝成学園に新入すると共に入寮することになった。宝成学園は全寮制で、学園の方針から受け入れる性別は男子のみ。ということらしい。花のない生活にはなりそうだが、最後にできた彼女とは別れて久しいので入寮は問題ない。
店も、花火さんが業者に頼んで時々ハウスクリーニングをしてくれるとのことで、いすずは勉強に打ち込みなさいと言われた。
ここまで来たら望むところである。
少ない荷物で荷造りを終え、迎えにきてくれた花火さんの車に乗り込み宝成学園に向かう。
宝成学園は急こう配な坂を上った山を切り崩した場所に建っていて、初めて訪れたときは「なんでこんなところに学校建てたの?」と、つい、隣の経営関係者に尋ねたものだ。
花火さんいわく、「この学園を建てた当時、平地に理想の広さが空いている土地がなくて、仕方なく山の上に建てた」らしい。
「それにしても、さすがいすずだね。賢い子だとは思ってたけど、うちの試験に1年で合格できるなんて」
もう1年はかかると思ってたよ。そう言われて首を傾げる。
「なにいってんの花火さん。1年もかかったの間違いだろ?」
「うんうん。そうだね。さあもう着くよ」
車が坂の上に着いて、更に奥にある車両通行門に入って良く。「お疲れ様です、学園長」門を開いた守衛さんが丁寧に頭を下げる。学園長とは花火さんのことだ。
坂月さんから、「花火は学校運営の仕事をしている」と聞いてはいたが、まさか頂点の人とは思いもしなかった。それならばあれほど難しい勉強をさせなくても裏口の形で入学させてくれれば良かったと思うのに、そう言ったら花火さんいわく「入口でつまずいていたらそもそも勉強にならない」だそうだ。これもごもっともである。
車が駐車場に着くと、花火さんは「職員棟」へ向かうことを告げ、いすずには、一時間後にある入学式の前に寮へ荷物を置いてくるよう言われた。
職員寮の前で花火さんと別れると、いすずは歩いて10分ほどの距離にある学生寮へと赴いた。
宝成学園は13歳から入れる6年全寮制で、学園寮は全部で6棟。
わずかに古びている旧館は下級生用、新しい新館は上級生用とされている。一般的に言うと中学生のところ、ここれは下級生。高校生は上級生と指定されているらしい。花火さんいわく、これをひとまとめに中等教育というらしい。
普段、宝成学園の受験は13歳の男子を募って行われるが、16歳の高校入試シーズンも受け入れていないわけではないらしく、そこにいすずも入り込めた形だ。
3年ほどお世話になる予定の、新館学生寮を見上げる。5階建てのマンション風で、いすずの部屋は5階の6号室。つまり506号だ。
寮は一棟に1学年が収納されるため、部屋数の関係から二人一部屋で生活することになる。と、花火さんから説明されている。
実はこの説明のとき、いすずはちょっとわくわくしていた。友達はいたけれど、歳の近い同性、つまり兄弟などとは暮らしたことがない。兄や弟に一種のあこがれを抱いていたので、二人部屋というのはいすずをステキな気持ちさせたのだ。
今日、相部屋となる人とあいさつ出来ると思うとやっぱりわくわくした。気分が良いまま寮の入り口に赴き、寮の管理人に学生証を見せて中に入ると階段を使って5階まで駆け上る。506号室にはすぐ着いた。
こげ茶色のドアに、認証にも使用できる学生証を差し込んで開くと、部屋の中から清潔な香りがした。クリーニング仕立ての広いワンルームは、一戸建てしかしらないいすずには新鮮で、あちこちと見て回りたい気分に駆られる。
手始めに、二階建てになったベッドを覗く。どうせなら上が良いなと、そこに眠る自分を想像しながら、次に窓。5階だけあって学園の向こうまで見渡せる。目を細めるといすずが住んでいた町のほうまで見ることができた。これは良い部屋を割り当てられたものだ。
次にキッチンを見て、その次に脱衣所を開けたところで。
「いたっ!」
「あ?」開けた扉が誰かにごちんとぶつかった。人がいるとは思いもよらず、結構派手な音がした。
なんでこんなところに人が?と思ってすぐ、相部屋の相手だと思いいたる。
「悪いわるい。大丈夫か?」ぶつけてしまったことを詫びてから、「お前、俺の同室のやつだろ?よろしくな」笑って手を差し出したが、相手はいすずの手を取らなかった、眼鏡をかけた顔が挙動不審に震えている。
じっと、相手を見て、いすずは「なんか変な奴だな」と思った。
目をひくのはくせ毛の髪、で済ませて良いのか判断しかねるほどの爆発ヘアー。染めていないので真っ黒な毛糸玉のようだ。
くせ毛のくせに前髪が長いらしく、もったりかかった前髪が眼鏡に乗りかかって顔がよく見えない。
なにかしゃべっているようだが声が小さいせいでまったく聞き取れない。「なあ。もうちょっとちゃんと喋ってよ。聞こえないんだけど」音量を合わせてもらえるよう、わざと強めに言うと、相手から小さな悲鳴が聞こえてきた。
「ご、ご、ごめんなさい……っ」かろうじて聞こえてきたのは謝罪だった。なんで謝られたんだろう?
「なに謝ってんの?」問いただすと、相手がぶるりと震えて、「あ。」脱衣所から一目散に出て行ってしまった。玄関が勢い良く閉まる音がする。行ってしまった。
「変なやつ……」今度は声に出してつぶやく。
あいつと、俺は今日から同じ部屋で寝泊まりすることになるのか。地元の友達みたいに、もっと気さくな奴と同室になることを想像していたのに、実際は暗い上、まともに挨拶もできない失礼なやつだった。あてが外れた気分だ。
膨らんでいた期待が一気にしぼんで、代わりに、一抹の不安が、いすずの胸に忍び込んで来た。
*
そいつと再会したのは、もう1時間経ってすぐだった。
入学式の式次第が順々に進んでいた最中。祝辞と答辞を述べる番になって、在校生が一人、新入生代表が一人、ひな壇に上がったかと思えば、あの爆発毛玉ヘアーだったのだ。
在校生代表は、特に緊張した風もなくすらすらと用意されたセリフを読み上げ、さっさと足をひいた。
次にセリフを読み上げる番となった爆発毛玉といえば。
「はは、はるめいたよ、ようきにめぎゅ……めぐま、れ、きょ、きょきょきょ、きょうという……ひ、ひっ、ひを、おおおおお喜び……っ」
噛みまくっていた。見ているこっちが恥ずかしくなるような緊張具合だ。
「いいいい、以上をもって、と、と、とうじの言葉と、させていただきます。
し、し、しんにゅうせい、だいひょう、……根倉草介(ねぐらそうすけ)」
ようやく最後まで読み上げたころには、3分ほどのスピーチが10分になっていた。みな白けた空気だ。
というか、あいつが新入生代表だなんて。人は見かけによらないな。
「あれが新入生代表だなんて、人は見かけによらないよね」
そのとき、隣でまったく同じ言葉をしゃべったやつがいた。振り向くと、のんびりした顔の生徒が、にこにこいすずのほうを見ていた。「そう思わない?」どうやらいすずにしゃべりかけたらしい。頷くと、やっぱりそっかー。と、生徒は再びひな壇を見た。
「でもね、あれでも今期の上級1年生進学学力考査で主席ってんだから、再三言うけど人は見かけによらないよね」
主席。ということは、あの滅茶苦茶難しいテストの一番を取ったということか。すごいなあいつ。
変な奴認定から変な奴だけどすごいやつ認定に挿げ替えているいすずに、「でもさ」その時、隣ののんびり男が不意にあざけるような声を出した。
「あれ、外部生なんだよね」
「へえ」ということは、いすずと同じ境遇の生徒か。同じ外部生同士だから同じ部屋に割り当てられたのかな。理由の意図は分かるけど、もうちょっと変な奴じゃなきゃよかったのになぁ。
「外部生が来ること自体珍しいのに、その上外部生があんまり良い点とるとろくなことないと思うんだよね。ここは6年一貫の縦社会なんだから。
しかも、何時もならお決まりのメンツが1から10番まで網羅するところを、今回は1も2も、外部生にとられちゃった上に、外部生がひな壇昇って祝辞を受けてるんだから、一部は殺気だってるよ」
「へえ」再び気のない声が出る。俺とあの爆発毛玉以外の外部生もテストで良い点とったってことか。ここに入ってくる外部生は頭が良いんだな。まあ、いすずには関係ないけど。合格は出来たから及第点は取れただろうけれど、正直、いすずのテストはいまいちな出来のはずだ。
「余裕そうだね」
余裕もなにも。
「関係ないからなぁ。俺には」
事実を述べると、相手の顔がちょっと引きつった。ん?と思う間もなく、相手は元ののんびり顔に戻ると、さっと顔をそらして前方に顔の向きを戻した。
いすずも顔を戻すと、会話をしている内に式次第がすべて、滞りなく過ぎ去り、最後に、学園長である花火さんがスピーチに入るところだった。
*
入学式を終えたあと。生徒は所定の教室で説明と挨拶を終えたあと自習という流れになった。
部屋に戻って、あらかじめ中に運ばれていた教材一式の入った箱を開けているさなか。がちゃ、と、玄関の開く音がする。この部屋に入るのはいすずの他にひとりだけ。「あ……」同室である爆発毛玉が、ダイニングで段ボールを開けていたいすずと目が合うなり、ささっと視線をそらした。そそくさ、脇を通って自室に向かおうとするので。「おい。なんだっけ。草介だっけ」名前を呼ぶと、びくっと相手の肩が震えた。
「お前すげーな。学年首席なんだって?頭良いんだな」
「…………」
「勉強教えてよ。せっかく同じ部屋なんだし」
「…………」
「……おーい?聞いてる?」
打てども聞けども応えがない。応えがないと話しづらい。しかもまた俯かれてしまった。
思わず呼びかけたいすずに、相手はふいっと顔をそむけて、そのまま自分に割り振られた部屋に入っていってしまった。
……さっきから失礼なやつだな。
こうも袖にされると腹が立ってくる。目の前で閉められたドアを蹴り飛ばしてやろうかと足を出しかけて、「いすずはすぐに足が出る」と叱られたことを思い出し、ひっこめる。いかんいかん。大人げないな。
いすずも自室に入ると、段ボールの荷ほどきを再開した。その際空腹を覚えて時計を見る。針は12時と30分をさしていた。知らぬうちに昼が通り過ぎようとしていた。
なにか食べよう。食べるものがないから買いにいこうと自室を出た時、いすずのスマホに電話がかかってきた。着信の主は花火さんだ。
「もしもしー?花火さん?」今朝ぶりの相手に呼びかけると、『入学おめでとう、いすず』まずはお祝いしてくれた。「ありがとー」へらっと、電話口で笑う。
『いすず。まだご飯は食べていないかな?』
「いまちょうど、なんか買ってこようかと思ってたところだよ」
『ちょうどよかった。久しぶりにご飯を食べに行こうよ』
「お、いいね」
ここしばらく、勉強の追い込みに受験に引っ越しに、バタバタしていて花火さんとメシを食べにいく暇がなかった。「お祝いもかねて」と言われ、ふたつ返事で了承する。
花火さんの車が止めてある、職員用駐車場に20分後に来るよう言われて、いすずはすぐに財布とスマホをポケットにつめて部屋を出た。
寮の廊下に出た時。
「…………?」
いすずと同じく、入寮したであろう生徒が数人、いすずの方を振り向いた。偶然かと思いきや、階段に向かっても視線がついてくる。
外部生は珍しいとさっき隣に座っていたやつが言っていたから、少し目立つのかな。
そもそも。外部生というのは、いすずと同室の爆発毛玉以外に、何人いるんだろう。
階段を降りると視線も見えなくなったので、それ以上は気にせず寮の外まで一気に駆け下りた。
駐車場に行くと、すでに花火さんはエンジンをふかしているところだった。「おまたせー」勝手知ったる助手席に入り込むと、「いすず。いつもの店でいいかい?」サングラスをかけた花火さんが行き先を聞いてくる。了解すると、あったまった車のアクセルを、花火さんがぐっと踏みしめた。
今朝、来た道を戻る形で麓の町に降りて、花火さんは駅の方へ向かう。コインパーキングに車を停めると、歩いて数分のところにある小さな洋食屋に入った。坂月さんが生きていたとき、三人でよく食事に行った店だ。店主は80を過ぎた老夫婦で、坂月さんが亡くなったとき、「子供の時から知っていた子が先に亡くなることほど悲しいことはない」と、通夜でおいおい泣きながら別れを惜しんでくれた。二人に会うのはあの時ぶりである。
到着したのが1時半ばなのもあってか、ランチ特有のあわただしさはなく、「あら。花火ちゃんといすずちゃん。久しぶりね、奥へどうぞ」おばあさんの方がお盆片手に二人を窓際の席へ案内してくれた。空席もちらほらある。この様子ならのんびり出来そうだ。
いすずは日替わりAランチ、花火さんは刺身定食を頼むと、先に貰ったレモンの効いた水を飲みながら「改めまして。いすず。入学おめでとう」花火さんが口頭でお祝いを述べてくれた。「ありがと」改めて、いすずもお祝いの言葉を受け取る。
「そういえばいすず。同室になった彼はどう?」
「同室のやつって……」あの爆発毛玉を思い出して苦い顔になる。ついでに、「あのさあ花火さん。俺と同室って、他に選びようがなかったの?」教員側である花火さんに文句のひとつも言いたくなる。
「どういうこと?不満だった?一応こっちも配慮して、外部生同士で部屋決めをしたんだけど」
「不満もなにも、外部生だからってあんなもじゃもじゃで根暗なやつと一緒にしなくてもいいだろ」
「こらいすず。ひとを見た目で判断するなって、坂月に酸っぱく言われてただろう?」
「知ってるよ。知ってるから俺も普通に話しかけてるんだけど、あいつ全くしゃべらないし、さっきなんか無視されたんだぜ。けなしたくもなるっての。
なあ、もうちょっとマシなやついなかったの?別に完璧なやつと一緒が良いとか面白いやつと一緒が良いとか、そんなこと思ってないけど、もうちょっとマシなやつ。
外部生なら他にもいただろ?」
「いないよ?」
「は?」
「いないよ。外部生はいすずとあの子だけなんだ」
「……は?え?まじで?」
「うん」
驚きの事実に、「いすずちゃん。いすずちゃん。日替わりA定食ですよ」おばあさんが食事を持ってきてくれたことに暫く気づかなかった。謝りつつトレイを受け取る。
ハシを取り出していると。「もしかしたら、見た目で判断しているのはいすずだけじゃないかもよ」花火さんが意外なことを切り出す。「どういうこと?」首をかしげると、「人のふり見て我がふり直せ。……は、ちょっと違うかな?」花火さんも、同じ方向に首をひねってみせる。わざとらしいけどこの人がやるとちょっとかわいい。
「いすずから見て、あのもうひとりの外部生の子は根暗で無口に見えるわけだね。でもさ、彼が無口になるのは、なにも彼の性格だけじゃなくて、いすずの所為もあるかもね」
「だからー、どういうこと?」
「いすず。うちの学園だと不良っぽく見えるからね。
これに至っては坂月の影響っていうか、坂月の所為っていうか」
「は?」ますます意味が分からない。
「不良?なんで?俺、素行が悪かったことなんてないだろ?」
「いすずが思ってる素行の悪さと、同世代の、しかもうちの学園にいる子たちから見た素行の悪さって別なんだよ。分かる?」
「わかんねー」
「いすずは目つき悪いし、制服も着崩してるし、ピアスもしてるしね」
「なんだよ。目つき悪いのは元からだし、こんなの着崩してる内に入らないだろ。それに俺、ちゃんと校則読んだぞ。この学園、ピアスダメって書いてないだろ」
「知ってる?いすず。校則がきちんと守られてるところほど、校則ってゆるいんだよ?」
「え?そうなの?」
「生徒が自主的に規律を守るからね。ようするに育ちのいい子ばかりいる学園なんだよ。そんなところじゃいすずはちょっと不良気があるよね」
ついでだからと、花火さんは自分が長を務める学園の成り立ちを教えてくれた。
そもそも、私立宝成学園とは、戦後の高度経済成長期、一山あてて莫大な財産を築き上げた花火さん一族の祖が、「国を支える後進を育てるため」という名目で設立されたものらしい。
その熱意は厚く。開祖は会社をいくつも経営する傍ら、熱心に宝成学園を育てあげ、やがてその熱意は一族に受け継がれることになったという。
「うちの一族は教育熱心なひとが多くてね。お蔭様で赤字黒字関係なく、宝成学園は今までうちの一族の熱い待遇のもと運営をやってこれたというわけ」
「じゃあ、花火さんも教育熱心なんだね」
「そうだね。僕も好きで学園長をしているよ。血は争えないね」
宝成学園の特徴といえば、まずは全寮制6年中等教育学校であること。男子しか入れないこと。
加えて、小学生を卒業した後に行われる受験にはある程度の学力が必要となる。
「勉強出来れば入れるんだろ?」
「そうとは言い切れないんだ。なぜかといえばね、私設学園は運営していくために、その運営費として生徒から学費をもらう。これが公立の学校に比べると3倍ほど費用がかかるんだ。
加えて、私設校ならではのやり方をしていると、当然そのための別置費用もかかる。
ようするに、もともと親御さんにお金がなければ入る見込みも立てられないわけだ」
さらに、お受験を受けるとなれば小学生のうちから塾や個人教師を雇う場合もある。そのためのお金もかかる。
「入るの大変じゃね?」暗に、そんな金のかかる学校誰が入るんだ。と聞けば。「それほどお金をかけるメリットは当然あるのさ」と、花火さんは答えた。
「うちの学園には、普通科と経営特進科とあるんだけど、その内、普通科なら、旧帝大学受験専門の勉強環境が完備されている。うちで生徒会でも経験すれば、旧帝大学の推薦が貰える可能性もあるんだ」
「へえ」聞いた事ない単語ばっかりで凄さが分からない。まあ説明されてるってことはすごいことなんだろうけど。
「さらに、経営特進科なら、卒業後すぐ、県内県外の優良企業から求人がきて、推薦面接を受けられるんだ。いすずも知ってるところだと、UCF銀行とかJL鉄道なんかの求人もくるよ」
「おおー!大企業!」
「本来こっちの企業も、大学を卒業しなければ入れないんだけど、うちの生徒は優秀だってことで、ヘッドハントがくるんだ。
というわけで、うちの受験はそこそこ難しいから、遊んでばかりの小学生じゃ入れないようになってる。付け加えて言えば、途中受験で入ってくる外部生の試験なんて、もっともっと難しいね」
「へええ。俺、結構すごいこと出来たんだなぁ」
「分かった?いすずが不良っぽく見えるって理由。
お金に困らないおうちで育った上にに優良企業か大学を目指しているような子たちばかりなんだ。
いすずみたいに、坂月の影響でお酒飲んだりタバコを吸ったりピアスを開けたりしないんだよ?」
「へー。人生損してるな」
「人生の得をどこに感じるかなんて、人それぞれだよ」
「ところで花火さん。俺の育ちが宝成学園から見ると悪いっていうのは分かったけどさ。そもそも、その学園のトップ張ってるような人が、どうして俺の養い親と付き合ってたの?」
「それは……坂月がしつこい上に強引だったから……」
養い親の話題が出た途端、花火さんが頬を染めて恥ずかしそうに口元をさすった。今日こそ聞けるかな。この人とあの人の謎めいたお付き合いのなれそめ話。
「具体的には?」
「割愛するよ」
ちえ。また教えてくれなかった。
「まあいいや。
それよりさ。話聞いてる感じ、俺ってば結構すごいことしたんじゃない?外部生の受験って難しいんだよね?」
「そうだよ。おめでとういすず。まさか二番を取るなんて思いもしなかったよ」
「ん?二番?」
「そう。外部受験と同じ内容のテストを、下級クラスを終えて上級クラスに進級する子たちにも受けさせるんだけど。
今年はすごいね。一番も二番も外部生の子がとっちゃったんだから」
「…………」さっき、似たような話をどこかで聞いたような。
「ねえ花火さん。外部生って、俺と、俺のと同室のあいつしかいないんだよね?」
「そうだよ」
「で、あいつは一番取って、俺が二番だったってこと?」
「そうそう」
「で、もっかい聞くけど外部生ってふたりしかいないんだよね?」
「そうだね」
「…………」
ふと、いすずの頭に、進級式で隣に座ったやつの。
『余裕だね』
の一言が浮かび上がる。
あれ、もしかして嫌味だったんじゃ……?
「おお。やべえ花火さん。俺、学園のやつに喧嘩うっちまったかも」
「え?どうして?」
「いや、それがさー……」進級式であった経緯を話すと、「あっはっは!」と笑われる。
「それはそれは。良い返し方をしたねいすず」
「知ってたらあんな風に言わなかったよ……」
どうしよう。嫌われたかな?たしか、クラス案内のときに近くに座っていたような気がする。初日からクラスメイトの誰かに嫌われるとかやだなぁ。
「同室のやつは根暗だし、クラスメイトには嫌な言い方しちゃったし、俺、この学園で友達できるかな……」
「ふふ。まあまあ。出来ないほうが良い友達なら出来ないほうがましさ。
それに、いすずはかっこいいから、むしろ他のものが出来るかもよ?」
「え?どういうこと?」
「ふふ。これはじかに体験してみるといいよ」
楽しみだね。と、花火さんは他人事のように笑って、ちょうど運ばれてきた珈琲を手に取り、ひとくち、美味しそうに吸い込んだ。
*
―――――どうしよう。
草介は自室でひとり、布団をかぶって丸くなっていた。思い浮かぶのは同室になった湊いすずの姿だ。
せっかく、せっかく挨拶してくれたのに、二度も大変失礼な形で終わらせてしまった。それも……。
あんなかっこいい人に!
だって舞い上がったんだもん!しょうがないじゃないか!
そもそも、根倉草介がここを進学先に選んだ理由はそこにある。
草介は、あわよくば「恋人」ができないかと思い、この学園に進学を決めた。
草介が自分の性癖に「違和感」を感じ始めたのは、ちょうど小学5年生くらいの頃だ。友達の誰かが、通学路で拾ったという女性の成人紙を学校に持ち込み、皆に披露してみせたのだ。
みな、食いつく勢いでその雑誌を読みふける中、「ほら、草介もみろよ」と勧められた草介は、え、なにこれ。きもちわるい。と感じたのだ。
口に出してそう言ったのだが、どこがどう受けたのか爆笑された。草介はぽかんとしていたが、友達の中に草介同様、唖然としているものは一人もいなかった。
その時は、へんだなと思っただけだった。
その「変」が明確になったのは、その次の年。時期外れの転校生がやってきた時だった。親の都合で一時期的にここへ通うことになった。と紹介された彼は、草介が通うかた田舎の学校の生徒にはとてもまばゆく、あか抜けたひとだった。髪が茶色で、まなざしが大人っぽい。げいのうじんみたいだ。と、その時草介は思った。そして同時に、かっこいいと思った。とてもとてもはしゃいでしまった。きっとみんなそうだろうと思い、彼の紹介が終わると他の友達に「彼、かっこいいね!」と同感を求めた。が、みな何故か白けた雰囲気だった。
あれ?と思ったが、よく聞いてみると、彼が「かっこいい」から、みな白けているらしい。余計にあれ?と思う。
よくよく、教室を見渡してみると、草介のようにはしゃいでいるのは女子のほうだった。あの人かっこいい。あか抜けてる。着ているものも男子とは違う。でもちょっと不良っぽい。そこが良い。芸能人みたい。かねがね、草介が抱いた感想と同じものだった。
男子はみなこういった。きにいらねぇ。女子受けしやがって。チャラチャラしやがって。と。それを聞いて、そうか、普通ここは反感を覚えるところだったのか。
じゃあ、自分が反感を覚えなかったのはなぜだ?
考えてみたけれどわからなかった。結局分からないまま草介もそれ自体を忘れて、転校生は女子にはしゃがれ、男子には嫌われ、そのまま転校していった。
自覚が訪れたのは中学生の夏休み明け。
仲の良かった友達が休み明けに様相が変わっていた。かっこよくなっていたのだ。夏休みデビューというやつだろう。髪の色も違ったし、持ち物も前よりお洒落になっていた。雑誌に載っている風だ。実際マネてみた結果なのだろう。けど、とてもよく似合っていた。
ドキドキして。「よお。草介。宿題みせてよ」と、背中を触れられた時、顔が熱くなった。
ようやく、なにかがおかしいと気づき始めた。
僕、男の子が好きなのかも。
自覚した瞬間目の前が真っ白になりこの世の終わりのように感じた。
中学生にもなれば、あちこちで「恋人」が出来上がっていくのは珍しくもない。クラスの中でだって、何人かは付き合い始めた。そんな話をよく聞いた。
けれど、草介のような話は一度たりとも聞いたことがないし。これが異常であることも、草介はちゃんとわかっていた。
草介は、自分の性癖に絶望した。
けれど、幸いにして相談者がいなかったわけではない。
草介を女手ひとつで育ててくれた母は草介の良き理解者で、彼女は草介に限らず、どんな話も真面目に受け取り、よく呑み込む善良なひとだった。
テレビで、同性愛についてのニュースが報道されていた時も、こういう人たちに出会った時、事情も聴かずに後ろ指を指すような人間になるなと、口を酸っぱくして言われたのを覚えている。他人にそう思うのなら、息子にだってきっとそう思ってくれる。
そう信じて。悩んだ末草介は母に事情を打ちあけた。母は一瞬呆気にとられていたが、「わかった。孫のことは気にしなくていいから素敵な彼氏を見つけるんだよ」やけに真面目な口調で一足飛びの心配をしてくれた。
家庭によりどころが見つかると、草介は随分安堵して、自分の性癖と見つめ合いながら今まで通り学校に通うことが出来るようになったが。
問題はやはり残った。周りに恋人が出来ていくのに自分は同性にしか目がいかない。思春期というのに大変な疎外感を覚えた。
隠して生活することに慣れるのは早かったが、これからも隠し続けていくのは気が重い。
かといって、誰かを好きになる勇気もない。
どうしたものか。
草介の悩みに気づいてか。中学2年生の春。母がとある学校の冊子を持ってきた。この辺りでは全く名前の知らない学校で、県外の山の上にある全寮制の男子校らしい。
母いわく、女性のいない環境ならば、草介と同じ気持ちになる人も多いのではないかという話だ。もちろん、その手の噂も絶えない学校らしい。
入試のレベルは草介の成績なら問題ないし、もうふたつ、学校は受けられるから落ちても気にすることはなし。草介の可能性が広がるという意味では良い案じゃないかと言われ、それもそうかと、私立学校の受験枠をそこにすえて勉強した。
結果、学校は全部受かり、草介の選択だけが残った。
公立の進学校へ進むか。山の上の男子校へ行くか。
母にまた聞いた。どうしたらいいか迷うと。
母は言った。
青春を満喫できるところにいけばいいと。
そこで彼氏が出来たなら、就職しながらその人と暮らしてみるのもどうだろうかと。
草介は勉強はできるけれど、勉強すること、したことを将来に生かしたいとまだ思えないなら、お母さんが今言ったような選択をしても良いんだよと。
草介は、勉強はできるけれど、自分の性癖も語れず、また、好きになっても報われない高校生になった自分を想像し。
それはさびしいと思った。
「けど、草介ってばすごいくせ毛で女の子にもてなかったじゃない?だから、男の子にももてないかもね」
お母さん。ひとこと余計です。
という経緯を経て、草介は私立宝成学園に入学した(入試の結果が、まさか首席だとは思わなかったけど)わけだが。
入寮初日から思わぬことにぶつかった。
同室になった人の見た目がものすごくタイプだったのだ。
先に寮に着いた草介は、軽い緊張感を覚えながら、「気の合う人と同じ部屋だといいなぁ」くらいに構えて、同じ部屋になるであろう人が来るのを、あちこち、部屋を見物しながら待っていたのだが。
脱衣所を覗いて、そこから出ようとしたとき。
部屋を開けて入ってきた人の顔を見て、思わず扉をしめてしまった。
――――かっこいい人が入ってきた!
髪が明るくて、体格がよくて、ピアスがついてて、制服の下に着ているシャツがヒョウ柄で不良っぽい!
けど、かっこいい!
今までにも、「あ、この人かっこいいな」って思った人はいっぱいいたけど、群をぬいてどきっとした!
どうしよう!どうやって話しかけよう!
どきどきしている内に、同室の彼は脱衣所の方まで差し迫り、とうとう、気持ちの整理がつかないままその人は脱衣所を開けてしまった。
咄嗟にうつむいた草介に、その人は色々と話しかけてきてくれた。不良っぽいけどきさくな人だ。けど、どきどきして顔が上げられない。
結局、草介は赤面がばれないよう、その場から逃げ出すことしかできず。
結局、進級式が終わって寮に戻っても、彼とろくに話すことも出来ず。
落ち込みながら、入寮初日の一日を終えた。
*
次の日。
「なにこれ……」寮の一階にある掲示板に大きく張られた新聞を見て、草介は唖然とした。
見出しには「特報!」と書かれ、横に連なる文字には「理事長の甥!?息子!?」とつづられている。
見出しの下にはカラー写真が掲載され、そこに、草介と同室の湊いすずが、学園長が同じ車に乗り込む姿が映されている。文責を見ると新聞部になっていて、どうやら生徒によるゴシップ紙の類らしい。
同室の湊いすずと学園長の苗字が同じであることは気づいていたが、まさか血族とは。
学園長一族ということは、この学校の頂点に近い人である。お金持ちがよく集まる学園だ。という噂や認識くらいはあったが、ようするにそれの上を行く人の血縁者だったわけだ。
ふと、舞い上がっていた気持ちがすごすご引き下がる音が聞こえた。
いくらタイプだからって、そんな人がそもそも草介を相手にしてくれるわけがない。入学して初日に膨らんだ期待が一気にしぼんで、代わりに、失礼なことをしたなという感情が大きくなってくる。
色々話しかけてくれたのに、上手くしゃべれなかった所為で無視するような形になってしまった。ちゃんと謝らないと。身上が雲の上でも、今は同じ部屋の人なのだから。
当初の目的だった自動販売機でジュースを二本買うと、草介は自室に戻り、湊いすずのいる部屋の前に立った。ちょっと深呼吸してから、こんこん扉をたたくと。「なに?」すぐ、湊いすずは顔を出した。
「あ、あの」今度は、緊張から顔がうつむく。相手の怪訝そうな雰囲気を感じ取る。はやく言わなきゃ。
「あ、あのね。昨日はごめんね。その、僕、初対面の人と話すと、上がっちゃうんだ」
ということにしておいたほうが無難だろう。
彼の性癖が草介と同じかどうかは知らないけれど、いきなり「あなたがタイプであがってしまった」なんて、男でも女でも、言いにくいし言われたほうも困るだろう。
「今日になったら、だいぶ落ち着いてきたんだ。で、失礼な態度だったと思うから、ちゃんと謝ろうと思って……」
お詫びにジュースを差し出すと、湊いすずは怪訝そうな顔から一転、なつっこい顔でにこっと笑った。
わあ。この人かっこいいけど笑うとかわいい。
「なんだそっか。よかった。俺の見た目がそんなに怖いのかって考えてたところなんだよ」
「え?なんで?」
「はなびさ……学園長にさ、同室のやつに怖がられてるんじゃないかって言われてさ。見た目が不良っぽいからって」
「う、ううん。見た目は別に……」確かに不良っぽいと思ったけど、それも含めてかっこいいなって思ったし。
「そっか。よかったよかった。あ、ジュースありがとな。俺もなにか……あ、」
吸う?と言われ、差し出されたのはたばこだった。「うえ!?」思わず喉がひねる。湊いすずといえば「あれ?タール合わなかった?」検討違いのところで首を傾げているところだ。
「いいいいいや!僕!タバコは吸わないから!」
「あれ?そうなんだ。俺の地元の友達みんな吸ってたんだけど」
「僕の地元はみんな吸ってなかったよ!」
へええ。そうなんだ。意外そうに湊いすずは言ってから、「試しに吸ってみる?」と、たばこを差し出してきた。断ろうとしたが、ちょっとだけ好奇心が湧いて、「う、うん」たばこを受け取った。言われた通りに火をつけて、吸って、「ごほっ!」思いっきりむせる。はっはっは!と、湊いすずに笑われる。
「僕には合わないかな……」
「そっかそっか。合わないならやめときゃいいよ。ほら、残りくれよ」
「あ、うん」
火の消えたタバコを草介から受け取り、それにもう一度火をつけて、湊いすずは残りのタバコを吸い始めた。さっき、自分が口をつけていたものを相手が吸っている。その煙が口から吐き出されたとき。
うわぁあぁあああかっこいぃいいい。
心臓をわしづかみされてしまう。
セクシーだ!同学年なのに、この人すごくすごく大人っぽい!
「か、かっこいいね、いすずくんって……」思わず口出して言うと。「いすず君って、なんかはずかしーなー。お前、俺のいっこ下だろ?」思わぬことを返答される。え?どういうこと?というのが顔に出ていたのだろう。再びはっはっは!と笑われた。
「いや俺、17歳なんだ。ふつー、高校1年って言ったら16歳だろ?」
「え、う、うん」
「だから、俺、いっこ年上なのね。だからクンは恥ずかしいから呼び方変えてよ。
そうだなー。いすずちゃんとかどう?俺の後輩、みんな俺のことそうやって呼んでたんだよね」
「それは構わないけど……あ、いや、構いませんけど」
「敬語はいらないって」
「……かまわないけど」
「あ、俺が17歳で一年生やってるのが気になる?」
聞いて良いものかどうか悩む話を、「実はさー」湊いすずはさらっと察して話だした。家のこと。養親が亡くなったこと。養親と学園長が恋人だったこと。その伝手でこの学園に入ったこと。いずれ残した店を継ぐつもりだったこと。
草介の身近にはない話だ。彼が大人びて見えるのも経験からくるのだろう。
だがそれよりも、話の中で草介が食いついたのは、「養親と学園長が恋人だった」という部分だ。湊いすずはそのことに、何の偏見もなさそうだった。
くわえて、どうも事情を聴く限り雲の上の人ってわけでもないらしい。
「そういえば、草介はどうしてこの学校入ったんだ?勉強したかったのか?」
話の流れが自分に向いて、諦めかけた希望がぐっと頭を上げる。
「あ、あの」今までで一番にふり絞った勇気を胸に控える。
「うん?」湊いすずが首を傾げる。やっぱりかっこいい。
こんな人とずっと、僕はきっと付き合いたいと思っていた。
「ぼ、ぼく、僕は、あの、あのね。……僕も、いすずちゃんのお父さんといっしょで、同性愛者なんだ」
言った瞬間心臓が跳ね上がった。が、「へえ。そうなんだ」湊いすずの反応は慣れたものだった。余計に期待が膨らむ。
「そ、それで、あの、……いすずちゃんと違って、ほんとのほんとに、よこしまな理由で、申し訳ないんだけど。
ぼ、ぼくね。こ、恋人がほしくて、こ、この学園に入学しようと、お、おもったんだ。男子校なら、そういう人、いるって聞いて。だ、だから」
付き合ってくれませんか。……という流れはおかしいな!
事情は説明できたけど上手く告白が出来ない!
混乱していると、湊いすずがどこから取り出したのか、チョコレートをひとつぶつまんで。
「ふうん。まあ入学する理由なんてひとそれぞれだよな。
いいと思うよ?
彼氏できるまでがんばれ。出来る範囲で応援してるよ」
それをかみ砕きながら、あっさりと言ってのけた。
おうえんしてるよ。
それを聞いて……あ。これ脈ないな。と、落ちてきた現実にすとんと熱が下がる。
……いや。そうだよね。当たり前だよね。
彼が同性愛に偏見がない上に草介のタイプだったとして、だから草介の恋人になってくれるという図式はありえない。
ありえないけど……やっぱり入学の期待が大きかったんだな、僕。
「ははは……」
母親が、「女の子にもてたことないから男の子にももてないかもね」と言っていたのを、泣きそうになりながら思い出す。
そして気づく。僕はもてないくせにイケメンが好きなんだな。
こんな風でほんとに恋人なんて出来るんだろうか。
……前途多難とはこのことだ。
「草介もチョコいる?」
「……いります」
貰ったチョコをかみつぶす。甘ったるいはずなのに、なぜかちょっとだけ塩辛く感じた。
おしまい。